ずれた私のずれに対する考え方

何だか付き合っていて違和感を覚える、どこかずれている人。
ほとんどの人がどこかで出会ったことがあるのではないだろうか。
会話をしていて論点がずれていたり、行動がずれていたり、考え方がずれていたりと、そのずれ方は様々だ。

中には人としてそれはどうなんだというところまでずれている人もいれば、ちょっとずれてて不思議な人だな、という人もいる。

かくいう私もよく友人からずれていると言われることもあるのだが、今回はずれている当人がそのずれに対して、どう考えているのかを書いていこうと思う。

そもそもずれているというのはどういうことなのだろうか。
端的にいってしまえば、一般的な考え方、行動、発言などから外れているということだ。
普通この場面でその発言はしないよなとか、この場面でこの行動はしないだろうとか、そういったものがずれだと思っている。

まだ若い時などは、もしかしたらそういった事をしている場合も多々あるかもしれない。
だがその場合は、色々な経験をして成長し、その言動の意味を理解し、いずれ補正されていくものだろう。ただ、私のようにいくら年を重ねてもその言動が補正されない場合もある。

それは何故なのか。
私の答えは、そのずれを認識出来ていないからだ。しかもそれに加えて、自分は間違っていないという固定概念に縛られると余計にたちが悪い。
ずれを認識出来るかどうか。そこにずれを補正出来るかどうかがかかっている。

勿論、そのずれが人間関係において、生きていくことにおいて、致命的なものなのであれば、補正する必要があるだろう。
ただし、そのずれが意図的に、敢えてずれているのであれば話は別だろう。

一般常識からずれていると目立ちがちだが、ただその常識の方に何か問題があったりする場合に、その常識に従わないというずれなのであればまた話は変わってくると思うのだ。

そこに確かな根拠や合理的な理由があるのであれば、それはずれではあるだろうが、間違ってはいないこともあるのではないか。

そういった場合にもそのずれを認識した上で、だと私は考えるのだが…。
認識できておらず、ただただずれている場合は弊害がある場合が多い印象がある。

人それぞれの価値観があり、生き方があり、人生があるので、一概に全てのずれが間違っているとは断定は出来ない。
ただそれで苦しんでいる人が居るのであれば、何か変える必要があるのではないか。逆に言えば多少ずれてても、それで何の問題もなければそれはそれでいいのではないか。
それがずれた私のずれに対する考え方だ。

最後にずれた当人から言うことがあるとすれば、ずれてる本人もそのずれで苦しい場合もあるということだ。
そしてその苦しみから抜け出す方法の第一歩として、認識するところから始まるのではないか、と私は考えるのである。

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