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11月(20191101)

 11月に入りました。ぐっと気温も低くなってきましたが、すごく快適な空気が広がっているような気もします。このくらいの時期の空の感じがとても好きです。高校くらいの時から秋になると、空を何回も見上げるようなことを繰り返していたような気がします。雲が全くなくて青いだけの空がなぜか心惹かれるものがあり、見てしまいます。理由も意味もきっとないんでしょうけれど。魅力の正体って何なんでしょうかね。意味とか考えずに脊髄反射的にああ良いっていう時もあるし、意味を一度考えてから、ああそれも良いみたいなこともあると思うのですが、そこに違いはあるんでしょうか。

 優劣はないんじゃないかとは思います。直感的に素晴らしいものと、論理的に素晴らしいものの間に。必要性みたいなものが絡んでいるんですかね。どちらかというと。必要性は全くないがなんだか心地よい絵というのと、心地よくはないが必要性がある絵というような違い。どちらも魅力のようだけど、かなり質が違うような気がしてきます。11月の空はたぶん即必要ってわけじゃないけど、なんかきれいって感じです。見ることができなくなっても死ぬわけじゃない、という。寒くなって来たからどちらかというと厚着の必要が出てきているかもしれない。花より団子、天気より厚着。でもなあ。必要ないものがどんどん無くなっていったらどうなるんでしょう。

 芸術みたいなものは真っ先になくなりそうですね。SNSもコミュニケーションツールとして優秀なものしか残らないかもしれない。明確な線引きはできませんが。生き残っていくために必要なものを残していくのは、一番賢い生き方のような気もします。こう考えると必要と芸術はかなり相反するもののような気がしてきました。芸術は必要じゃない。必要は芸術じゃない。というような。派閥争いで乱闘が起きそうです。

 実際はもっと複雑で、誰にも分からないんでしょうけどね。きれいな景色を描いた絵が必要か、即興的な一期一会のその時しか出会えなかった音楽が必要かどうか、甘酸っぱい恋愛映画が必要かどうか、11月の空が必要かどうか。決めることはできないですね。魅力を感じる時に、人間の体にどういう作用が起きてそれに欲求を感じるのか、みたいなことは、たぶん、実際の体の動きを精密に研究しても分からない事なんじゃないかという気がします。特定の心拍数とか表情とか皮膚の反応とかに「魅力」と名前を付けようとしてもとても虚しいことになってしまいそう。青空を見上げる行為に「魅力を感じている」と名前を付けて、高校生の、空を見上げている自分に「君は今魅力を感じているんだ」とか言っても、「はあ、」となんだか怪訝そうな返事を返されるだけのような気がする。

 その時々で何もかも変わっていってしまうことに慣れないと。うまく生きていけません。完璧な魅力はどこにもなくて、「11月の空はなんか見ちゃう」という今までの事実だけが、11月の空を魅力にして必要にするということを、なんとなく諦めつつ慣れるくらいしかできることはない、気がした、魅力も必要性もない、もしくは、ある、日記でした。

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