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科学はなぜ「神」を相手にしないのか

最後の更新から期間が開いてしまい申し訳ありません。今回これまでと少しテイストの違う記事をお送りしたいと思っています。

科学は生意気である

「科学は生意気である」

これは、「科学は人間にとって大切なことを明らかにできていないのに幅を利かせすぎだ」という思いや「なぜ科学は非常に限られた条件下でしか役に立たないのに万能であるかのように扱われているのか」といった疑問からしばしばいわれる言葉です。神は存在するのか? 「幸福」とは何か?ほとんどの人が実質的に無宗教の日本ではあまり感じないかもしれませんが、神を信仰している人にとっては神のことは非常に本質的かつ大切なことでしょう。そして「幸福」とは何か?というのもまた人類にとって非常に大きなテーマでしょう。しかし、ご存じの通り、神のことについても、人間の幸福についても、科学が明らかにしたことはほぼ無に等しいといえます。「いやいや、どんなことを幸せに思うかというアンケートを取れば多くの人がどんなことを幸せに思っているか、だいたい検討がつくじゃないか」という人もいるかもしれない。しかし、それに対しては「それは人類の幸福に対する価値観が大体均等で、時間とともに急激に変化しないという前提に基づいているが、それは保証されていない」と反論することができます。人間の幸福に対する価値観なんて十人十色なんだから、抽出した標本と母体のうち標本として抽出されなかった人たちでちょうど正反対の幸福観を持っているかもしれない、とか、たとえ全人類からアンケートを取ったとしても、そのアンケートの2秒後には幸福観がガラッと変わってしまって、そのアンケートは結局意味をなさないものになる*1、とか、そういった反論が可能だというわけです。これは一般に「屁理屈」と言われそうな反論ですが、確かにこれをきちんと否定しきることは難しい。

科学と屁理屈から派生して科学について考えるに際して、面白いエピソードがあるのでそれを交えてお話しできたら、と思います。以下は、爆笑問題太田氏と京都大学のX線天文学を専門とする先生のやり取りです。(一言一句同じではなく私の意訳要約が入っているのでしっかりと聞きたい方はどこかでこの映像を見つけていただきたい。)

この会話が始まる前にも長い会話がありますが、今回は本記事「なぜ科学は「神」を相手にしないのか」というテーマに関する部分だけ抜粋させていただきました。

太田「天動説だって本当かもしれない。いまだに信じている人間もいるはず」
中略
先生「信じてる人の有無で話せば宗教と科学は同じ物になる」
太田「ほぼ一緒だろう」
先生「違う。なぜなら方程式を解けば誰でも導き出せてしまうから。そして、太陽を中心に各惑星が公転していると考えると驚くほどうまく説明できるのだから」
太田「それはただの仮説ですよ」
先生「違う。仮説ではない」
太田「いや、仮説です。金星は、意思を持ってそういう動きをしているかもしれない」
中略
先生「そういわれるのであれば、私はもう議論には参加できない」

では、この会話を考察していきましょう。まず、科学者の先生の「方程式を解けば誰でも導き出せるから」という発言が、これはのちにお話ししたいのでこれに関してはいったんここではスルースル(激寒)。

ここで考察したいのは太田氏の「金星は、いしを持ってそういう動きをしているかもしれない(岩石惑星だけにね(激寒))」という発言です。読者の皆様にも、これに対する反論を考えていただきたく思います。



考えられる反論の一つに、「計算すればいつどこに金星があるのかぴったり算出できる」というものがありますが、これは「金星が時間に厳しいタイプの星で、めちゃめちゃ正確に動くよう心掛けた結果かもしれないじゃないか」と言われてしまえばそれを否定することは難しい。ほかにも、「金星は明らかに生命体でもなければ電子的な知能も持っていないのだから、意思を持って動いてるわけがない」といっても、「人間がそう思い込んでいるだけで、金星だけは特別で意思を持った星かもしれない」と言われればこれを否定することもまた難しい。

今「科学的事実」とされていることを否定する仮説を科学は否定しきることはできていない訳ですが、これを以て我々は「科学は非常に限定的な状況でしか役に立たない無能だ」と、「科学は生意気だ」と言えるのでしょうか?

多くの方は直感的に「『金星に意思がある』とか、そんな馬鹿らしいことは科学の対象にならない」と感じていらっしゃるでしょう。しかし、本当に金星には意思があるのだ、と心から信じている人にとってはそれはまったく馬鹿らしいことではないわけで、「馬鹿らしい」かどうかを決めるのは一個人の主観に過ぎない、と言うことになります。

馬鹿らしいかどうかが個人の主観に過ぎないとなれば、やはり科学は限定的な能力しか持たない偉そうな存在なのでしょうか?ですがやはり「金星に意思がある説」を否定できないからといって科学が限定的な能力しか持たない無能だと結論づけるのは早計であるような感覚を禁じ得ません。何が科学の対象になり何が科学の対象にならないのか、考察する必要がありそうです。

科学の限定条件性

科学の対象になるものを考えるに際して、科学のそもそもの「性質」について考えていこうと思います。

先ほどの京大教授と爆笑問題太田氏の会話で教授の「方程式を解けば誰でも求められるから」と言う発言についてここで言及します。

先程、私は科学が無能だと判断するのは早計すぎる感を禁じ得ない、と言いました。これはつまり私(を含む多くの人)が、「科学は有能だ」と感じているということです。元々科学は生意気、というのは科学が実際の能力より有能と評価されているのでは、という疑問に端を発しているのですから、当たり前と言えば当たり前ですね。皆さんのもとにこの記事が届いて読んでいただけるのも紛れもない科学の産物というわけで。この「有能さ」は、科学の性質に由来します。

科学の最大の性質は、あるところで起きた(起こされた)事象を条件を整えれば誰でも再現できる事、そして、条件を整えれば必ず目的の事象を発生させられる事です。この教授の「誰でも方程式を解けば...」という発言はまさに科学の最大の性質を言い表しています。

先ほどから何度か「科学は非常に限定的な状況でしか役に立たない」と言った表現をしていますが、実は科学は「非常に限定的な状況でしか役に立たない」こと(これをここでは「限定条件性」と言うことにします)によってその有用性を担保されています。

どういうことかと言うと、その限定条件性が科学の有用性の根幹である「誰でも」「必ず」を支えているということです。

「なんでかわからん(=条件が緩い)けど僕がやったらできた(他の人間がやってもできるかどうかはわからない)」や、「なんでかわからん(=条件が緩い)けど、ときたま出来る(必ず出来るとは限らない)」という語り口ってめっちゃ「非科学的」な感じがしませんか?そして、こういう情報って科学的な意味を持たないのです。

その事象が起きる条件を厳密に調べて、誰でも、必ず、それを再現できることが科学の有用性なのですから、科学が「非常に限られた条件下でしか役に立たない」のは、実は当たり前のことなのです。

さて、本題と少しずれてしまいました。本題、「科学の対象となり得るものとなり得ないもの」の話に戻りましょうか。

科学の対象になるものとならないもの

前項で科学は「厳密に条件を調べることによって生まれる再現性によって有用になる」という事をお話しさせていただきましたが、これはおおまかに「仮説→検証」の流れを通して行われます。

この「仮説→検証」という営みがどのようなものかというと、「これがその事象が起こる条件なのでは?」と予想し、実験などを通して「その条件だった」または「その条件ではなかった」を評価する、というものです。

これを評価するためには「どのような結果が得られたらその条件だといえるのか」が明確であると同時に、「どのような結果が得られたらその条件ではないといえるのか」も明確でなければいけません。

「反証可能性」という言葉があります。これは「その仮説を否定することができること」という意味です。

「重いものも軽いものを同じはやさで落ちる*2」

これは、実際に実験を行ってみて、重い物体と軽い物体のいずれかがもう一方よりも早く落ちたりすれば、この仮説は誤りであることが証明できます。このように、構造的に仮説の誤りを証明できる性質、つまり反証可能性を持たない仮説は、「どのような結果が得られたらその条件ではないといえるのか」が明確でないため、検証での評価が不可能です。

厳密に条件を調べることによってその有用性を成立させている科学にとっては、反証可能性を持たない仮説を対象にすることは不毛なのです。これが「科学の対象になるのはどのようなものか?」という疑問に対しての答えになると考えます。

科学は、反証可能性のある仮説をその対象とするのです。

これを踏まえて太田氏の「金星に意思がある仮説」を見てみましょう。金星のふるまいをいかに明らかにして、それがいかに無生物的であるかを示したとしても、「金星が意思を持ってそういう風にわざとふるまっているだけかもしれない」ということができます。つまり、この仮説は構造的に「反証可能性」を持たないわけです。だから、この仮説は科学の対象になりえない、ということですね。

人間にとって本質的な問題である「神」であったり、「幸福」に関してもこれらは反証可能性を持ちません。何らかの方法で神はいなさそうだという結果が出たとしても「神は超人的存在だから人間には観測できなかっただけで存在する」とか「神は存在するがその存在を悟られないために人間には神がいないことを支える証拠を人間に見せているのかもしれない」など反論することができ、反証可能性を持ちません。(幸福に関しても同様*4)

だから、科学*3は「神」を相手にしないのです。






<注釈>

*1.時間的恒常性がないことによってアンケートが意味をなさなくなる、という事象に関しては、そのアンケート結果を政策等に用いることはできないが、「幸福とは何かを明らかにする」ということに関してはその目標を達成しているととらえることもできる。

*2.感覚的にわかりやすく記述したが、厳密には「空気抵抗を考慮しなくてよい条件下で、物体が自由落下するとき、その物体の質量にかかわらず同じ時間で同じ距離だけ落下する」といった感じである(理弱なのであいまい表記)。反証の条件についても同様。

*3.雑駁な定義で申し訳ないんですが、神学や哲学等を除いた、いわゆる近代科学のことを言ってます。

*4.「これが幸福だろう」というものが何らかの方法で導き出されたとしても「それを幸福と感じない・それ以外を幸福と感じる人がいるかもしれない」と永遠に反論することができてしまう。

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