死という「自然」
死に対して漠然とした恐怖をお持ちの方は少なくないのではないでしょうか。
その恐怖の正体は
人間の力が及ばない自然に対して、分断することで回避してきたが、死という内なる自然はどうしても分断できないから
ではないか、という仮説が立ちました。(高橋博之47キャラバンに同行させていただく中で着想を得ました)
私達は不自然の中で生きています。特に都市部で生活する人々は設計士の頭の中で暮らしているようなものです。直線で溢れています。
一方、農山漁村に足を運ぶと、都市部に比べて直線は少ないです。自然には直線的なものは少ない、という事です。
都市化は自然を排除しコントロールする営みでした。
時代を江戸時代に戻すと、9割が農民でした。彼らは無常というメンタリティを持っていました。一次産業の生産者さんほど「しょうがない」という言葉を使う人はいないでしょう。現代の一次産業の生産者さんも同じです。
気象といった環境的要因で作物が枯れる、魚が獲れないなど「しょうがない」ことが多々あるのです。
一方、都市部の会社の中で「今月の目標を達成できませんでした」と上司に報告して「まぁ、しょうがない」と言っている会社は資本主義の中では負けてしまいます。だからこそ「こうすればこうなる」という理詰めで計画通りに進むことを求められていて、そこに無常観はありません。
日常の中で無常観が失われつつある一方、未だに生老病死という自然に勝つことはできません。自然との分断が、我が身に付き纏う自然を恐怖の対象にしたのではないでしょうか。
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