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起業家と社会構築主義のジレンマ

先日、日本は課題ロスになってない?というお話をしました。

何でも「課題だ!」とラベリングすることへの批判を書いています。
第三者に「課題だ!」と言われると、当事者は重大な問題を抱えているような気になってしまいますよね。

学校の先生に「お前は問題児だ、それは悪だ」とラベリングされた生徒はその時に「自分は問題児であって、悪である」と認識します。
これが社会構築主義です。人間関係が現実を作るという考え方で、現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、個人の頭の中で作られるものではなく、人々の交渉の帰結であると考え、言語的に構築されるという話です。

この構造(社会構築主義)が頭にある起業家は色々とこじらせてしまう(実際に私はこじらせています)恐れがある、ということについて書きます。

起業家は誰かの課題を解決するプロダクトや仕組みをつくります。そこで対象者に起こる事象を「課題」とし、それは「解決されるべき」とラベリングすることになります。

ここで「課題だ」と認識させて(もしくは元々認識している課題に対して)「これを使えば解決できるよ」という状態を目指すわけですが・・・

一方で、
「このように解釈すれば課題にならないんじゃない?」
「あなたにとっては課題かもしれないけど、この人からすると合理的なんじゃない?」
といった新たな視点の提供や、他者の合理性を理解しようとする営みを通じて、課題が課題でなくなる(もくしは課題ではない認識する)ことも往々にしてあるわけです。

とはいえ、誰にも解決不可能だった課題を解決する起業家は人々を救うことになるわけであって、課題の設定の仕方と、その課題の定義にたどり着くまでの問いの設定に全てがかかっているのではないかと最近思っています。

というつぶやきです。


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