見出し画像

【短編小説】甘い香りにご用心

龍のイシュタル君がうっかりトラブルに見舞われるお話です。


天界の蒼き龍イシュタルは洒落たバーのカウンターで、若い女と二人、強めの酒を舐めるように楽しんでいた。
人の姿を取るときのイシュタルは青い髪と青い瞳なのだが、中道界では目立ってしまうため、龍の力を使って黒目黒髪の東洋風の顔立ちに変えている。傍らにいる女は茶髪のなかなかの美人で、傍目にはお似合いの恋人同士のようにも見えた。
実は、女とは先ほど知り合ったばかりで、お互いに名前も素性も知らない間柄だ。しかも、誘いをかけたのは女の方で、所謂逆ナンパというやつだ。
女はなかなかの美人だったし、言葉を交わした際の印象も悪くなかった。それで、イシュタルはほんの気紛れで誘いに応じることにしたのだった。
(薔薇の香水か。いい匂いだな)
イシュタルは女の身体から薄く立ち上る香りに目を細めた。
やがて、女は自分には彼氏がいること、その彼氏が若干DV気味で時々乱暴なことをするので困っていることを打ち明けてきた。
「俺なんかと一緒に居て大丈夫なの?」
女の話に引っ掛かりを覚えたイシュタルは率直に尋ねてみた。その彼氏がどんな乱暴者でも本性が龍である彼の敵ではないのだが、トラブルは望むところではないからだ。
「うん。彼、昨日から出張で地方に行ってるから。いないときにこうして羽根を伸ばしてるってわけ」
そう言って、女は屈託なく笑った。
「ふうん。そっか」
イシュタルは女の話を信用して、改めて酒を口にした。
どうやら女は酒を過ごしたらしく、バーを出る時には足取りがふらふらしていた。彼女の住まいはここから歩いて帰れる範囲という話だったが、
「危ないから送っていくよ」
当然のようにそういうことになった。

女は言葉巧みにイシュタルを自宅に連れ込んだ。10階建てマンションの8階にある一室だ。
「送ってくれてありがと。折角だからお茶でも飲んでいって」
女は玄関の鍵を閉めると、酒のせいかほんのりと赤い顔でイシュタルに笑いかけた。
「あ、気ぃ使わなくていいよ。俺、もう帰るから」
そっけなくイシュタルが断ると、
「ええ~酷い」
女はあからさまに身体を寄せて、潤んだ瞳で媚態を露にしてきた。
「淋しいから、一緒に居て。ね?」
(あ)
イシュタルは女の身体から立ち上がったフェロモンを認識した。
(これ・・・受け入れOKってやつか)
イシュタルは女にしどけなく寄りかかられながら、龍の力を少しだけ使って女の有り様を確かめた。
(・・・これは「いい女」だな。俺との相性も良さそうだ)
彼は自分と相性が良い相手であれば、据え膳は遠慮なく頂く主義だ。
イシュタルは女の腰に手を回し、
「ホントにいいの?」
念のため確認した。
男の言葉の意味を察した女は、恥ずかしそうに小さく頷いた。
「ベッドは?」
「こっち」
イシュタルは女に誘われるようにベッドルームに向かい、二人はベッドの上で抱き合って何度かキスを交わした。
そして、女を優しく寝かせ、再びキスを重ねる。ここまでは流れも雰囲気もいい感じである。
ところが、イシュタルがいざ事に及ぼうと女の服に手を掛けると、女はイシュタルに身体をぴたりと寄せ、強く抱きついて離れようとしない。
「こら、そんなんじゃ、なんもできないだろ」
「だって、恥ずかしい」
「ここまできて、恥ずかしいってなんだよ」
そんなやりとりをしている最中、突然玄関の鍵ががちゃりと開いた。
(?)
イシュタルは動きを止めて耳をそばだてる。
やがて、ずかずかと大股で侵入してくる複数人の足音が聞こえてきた。
「!」
イシュタルは女から身を引き剝がすと、訝し気にそちらの方へ視線を投げた。
「こらあ!〇△■×!」
ベッドルームの入り口でいかつい顔の男が、怒り心頭のオーラを漂わせてイシュタルを怒鳴りつけた。その背後にはいかにも素性の悪そうな若い男が3人、イシュタルの逃げ道を塞ぐように控えている。
そして、女はベッドからするりと抜け出すと、さっさと男の背後に隠れてしまった。

「×〇$&ΩΨ%&!!!」
いかつい顔をした男は、イシュタルに向かって厳しく喚きたてていた。
かたやイシュタルはベッドに座ったまま、ぽかんとした表情でその様を見つめている。
(何言ってるんだ、こいつ)
残念ながら彼の耳には男の声が単なるノイズとしか聞こえず、何を言っているのかさっぱりわからないのだ。どうやら相手は、龍とは意識レベルが全く合わないタイプの人間のようだった。
やがて、男は実にいやらしい笑みを浮かべた。どうやらイシュタルが沈黙している理由を都合よく解釈したようだった。
女は男たちに紛れ、薄笑いを浮かべながら憐れむようにイシュタルを見下ろしている。
(あ)
ここにきて、イシュタルはようやく思い至った。
(これ、美人局ってやつか)
途端にイシュタルは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、ぼりぼりと頭を掻いた。そして、
「はあ・・・面倒くせえ」
思わず日本語で呟いてしまった。
その呟きは、相手に更なる燃料を投下したようなものだった。
「■×%#βΚΘφ&¥€!!」
いかつい男は遂にイシュタルに向かい暴力を振るってきた。
「おっと」
イシュタルは華麗に身を翻して男の攻撃を躱すと、
「どきな」
と、取り巻き達に声を掛けた。
しかし、取り巻きの男たちは彼の言うことを聞く筈もない。
(しょうがねえな)
イシュタルは軽く舌打ちすると、口の中で小さく呪文を唱え、魔法で男たちを押しのけた。
「あっ」
「うわ」
取り巻き達が慌てるのをよそに、イシュタルは僅かに出来た隙間を潜り抜け、慌しく靴を履いて玄関を飛び出した。向かった先は非常階段だ。
こういう時は三十六計逃げるにしかず、だ。

「あの野郎、逃がすな!」
男たちは兄貴分の指示を受け、逃げ出した若い男の後を追った。
女が引っかけてきた相手は顔がいいだけで、腕っぷしの弱そうな格好の獲物だった。
その男は、情事の現場を抑えられ、筋の悪そうな男たちとその兄貴分の剣幕に怯えているのかと思いきや、あろうことか心底嫌そうな顔で
「面倒くせえ」
と言い放ったのだ。
それは彼らの怒りを増幅させるに十分すぎる一言で、それゆえに絶対に捕まえて金を巻き上げ、ついでに存分に痛めつけてその言葉を口にしたことを後悔させてやるつもりだった。
非常階段のドアを開けると、若い男は上に向かって駆け上がっていた。
(あいつ、バカか)
男たちは薄ら笑いを浮かべた。相手は自分たちを怒らせたことを自覚し、パニックを起こしたのだろうと考えた。
兄貴分が更なる援軍を呼び出したことで、総勢8人の男と女が獲物を追って非常階段を駆け上がった。
屋上に出るドアを開けると、獲物はそこに突っ立っていた。
「逃げ道、塞いどけ」
兄貴分の指示で、男たちは隣のビルに飛び移れそうなルートを消すべく動き、じわじわと獲物の包囲網を狭めた。
獲物は後ずさりし、道路に面した側の手すりに背中をくっつけた。
そこには飛び移って逃げられそうな建物は何もない。
「この野郎、ふざけやがって!もう逃げられねえぞ!」
「屋上に逃げるなんて、あんた、バカじゃないの?」
兄貴分の怒号と女の悪態が重なった。
獲物の若い男は、再び頭をぐしゃぐしゃと掻きむしり、
「はあ・・・お前ら、マジ面倒くせえな」
心底うんざりしたような声音で言い放った。
そして、
「・・・たかが人間の分際で」
と、忌々し気に吐き捨てざまに、底冷えのするような目で迫り来る男達を睨みつけた。
「うっ」
その気迫に男たちは一瞬たじろいだ。
次の瞬間、そこに居た者達は凍り付いた。
自分たちが追い詰めた若い男はふわり、と手すりを乗り越えると、躊躇することなくその身を宙へ投げ出したのだ。
「きゃああああああ!」
女は悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。

屋上から飛び降りたイシュタルは、追手の視界に入らぬように注意しながら、ビルの隙間をぬって巧みに空を飛んでいた。
イシュタルが屋上に逃れたのは、単純に8階から地上に向けて階段を駆け下りるのが面倒臭かったのと、地上に降りると追っ手を振り切るのに苦労しそうな気がしたからだった。
イシュタルを嵌めようとした連中は、今頃自分たちが追い詰めた故に彼が自殺を図ったと思い、道路に横たわる無残な死体を想像して肝を冷やしている事だろう。
(やれやれ、俺としたことが美人局なんかに引っ掛かっちまうとは)
イシュタルは再び苦虫を噛み潰したような顔をした。
これは、女の有り様を見誤ったという点において、彼にとっては立派な失態だ。

やがてイシュタルは、気まぐれな屋台のおでん屋の姿を見つけ、地上に降り立った。
ガード下に陣取った本日のおでん屋は大盛況で、大テーブルにも屋台にも客が鈴なりだ。雰囲気から、どうやら魔界人御一行様が占拠しているようだ。
イシュタルの姿を見つけた店主のラディンは、「こっちにおいで」と目で合図した。
「お客さん、すみません。ひとり座らせてあげて下さい」
ラディンは屋台の前に陣取っている客に声を掛け、ひとり分のスペースを確保すると、そこにイシュタルを座らせた。
「あっ、どうもすみません」
イシュタルは同席の魔界人たちに会釈すると、
「親父さん。とりあえず日本酒と厚揚げ下さい。ああ、酒は常温で」
早速注文を出した。
ラディンは頷くと、手早くコップ酒と厚揚げをイシュタルの前に置き、
「君、今日はいつもよりも龍の匂いが強いようだが」
日本語でさりげなく尋ねた。
同席している魔界人たちに悟られぬよう、配慮してくれたのだ。
「はあ。ちょっと」
イシュタルは言葉を濁した。
ラディンは小さな笑みで頷くと、それ以上何も訊かなかった。

結局、イシュタルがラディンにこの日の出来事を打ち明けたのは、暫く後のことであった。


本日は趣向を変えまして、イシュタル君が人間に騙されそうになった話を書いてみました。イシュタル君とジンちゃんは自由に動かせるキャラなので、書いていてとても楽しいです。
Nolaノベル様に公開中の本編は作者お調べ期間中のため筆が滞っておりますが、この夏の間には完結させるつもりでおります。
現在30話まで書き進めていますが、40話程度で終わりになるかと思います。
・・・ユージには悪いが早くノエル様の話に移行したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?