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君みたいなやつに僕のじゅぐじゅぐ腐った痛みがわかるもんか。

今回は珍しく、結末まで暗いです。人間はさみしいよ、というおはなし。

人は人を救えません。これは私の母の教えです。どうやったって、どうあがいたって、誰かの苦しみを自分の努力だけで取り去ることはできません。人間が人間を救おうったって無理なんです。

周囲がどんなに頑張ったって、結局その人を根本的に救うのはその人自身です。本人が動こうとしなければ何も変わらない。

自分が人を救えないなら、自分も本質的には人に救ってもらう事ができないのもまた真です。

私は高校時代かなり精神状態が良くなかった時期があって、同じ委員会の友人が励まそうとしてくれたのですが、私が変わろうとしなかったのでそのまま彼女は私から離れていってしまいました。あの時の彼女の気持ちが、2年経った今になってようやくわかるようになりました。

全ては自助に終結するのなら、人と人の関わりって何のためにあるんでしょうね。私はまだ答えが出せません。人を助けられるのなら、生きている価値くらいあるんじゃないかと幼い頃の私は思っていました。でも私にはそんな力はなかった。私は一体何のために生きているんでしょうか。生きていて何ができるんでしょうか。そんなことなら生きていなくたって。

この記事のタイトルは、カンザキイオリさんの「君の神様になりたい。」という曲の歌詞からインスピレーションを受けています。私は傲慢なことに、誰かの神様になりたかったのかもしれません。

人はどうして人と関わるんでしょう。

自分の中に生きる意味を見出せない時点で自分自身の薄っぺらさが見えているし、私は終わりなのかもしれません。

誰かに頼ってもらわないと自分の存在を肯定できないのかもしれません。赤ちゃんですね。誰かに頼られて、必要とされることに自己の基礎を置いている。自分の基軸を他人に置いてしまっている。

でも、きっと人間みんなそうなんです。そう考えれば先程の問い「人はどうして人と関わるんでしょう。」の答えも出ます。もしかしたらこれは偽かもしれないけれど、(そもそも何が正しくて何が正しくないかなんて誰にもわからないけれど、)当分はそう思い込まないと生きていけなさそうです。

まだまだ修行が足りませんね。

読みたいと思っていた本と撮影用の衣装を買うために大切に使わせていただきます。