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セクマイと、ミスコン廃止論の話。


近年、ミスコン廃止論が広がりを見せています。弊学も例に漏れずミスコン廃止論者が一定数を占め、今年度からミスコンの審査基準が変更になりました。でも私は、1人のセクシャルマイノリティとしてミスコン廃止論には危機感にも似た違和感を感じます。セクシャルマイノリティにとって生きやすい時代の終わりが始まったな、と感じてしまうのです。

ミスコン廃止論の論拠は大きく2つあるようで、一つはミスコンがルッキズム・セクシズムを助長すること、そしてもう一つはミスコンに関連した各種イベントが参加者や観客をヘテロセクシュアルであると決めつけるようなものであることです。ルッキズム・セクシズムに関して私は何も勉強していないので語れることはありませんから、今回は言及を避けたいと思います。しかし、後者の論拠に関してはセクマイ当事者として少し意見を書きます。

これはセクマイみんなの総意ではないことを念頭に置いて読んで欲しいんですけど、私は、言い方悪いけれど、セクシャルマイノリティを論拠にしたミスコン廃止論は多数派のエゴだなと思いました。現行のものを私は一種のエンターテインメントとして楽しんでいるし、私は私がマイノリティであることはわかっているし、別にセクシャルマイノリティであることをみんなが理解してくれさえすれば良くて、特別扱いして欲しいわけじゃないんです。みんながわかってさえくれればいい、存在して普通に暮らしていることを理解して、暮らしを脅かしてこなければそれでいいんです。
別にマイノリティが集団をruleする必要はなくて。そこまでは求めてないんですよ。性的指向や性自認なんて個人の自由だから、マイノリティが増えるべき!!みたいな問題でもないし。

私たちマイノリティは、もちろんここ数年の大きな動きで、マイノリティの認知の増加で、ずいぶん生きやすくなりました。今、私がこうやって意見を書けているのも、そういう動きをつくってくれた先人たちのおかげだということは理解していますし、心から感謝してます。でも、もうやりすぎなんじゃないですか。もういい。もういいんです。もう十分なんです。

誰かを助けようとする心が、他の誰かから何かを奪う材料になっちゃいけないんです。マイノリティの存在を認めようとする心は本当に優しいし視野も広いと思うけれど、マイノリティは所詮マイノリティなんです。だってもともと少ないんだもん。これは変えられないことだし、変わったらおかしいことです。世の中はセクシャルマイノリティであることを強要しているのか?となってしまう。近年のセクマイ擁護って、もちろん本当にありがたいんですけど、でもたまにセクマイ自身を置いて行ってしまっていることもあって。少数派を大切にしようとするが故に多くの人の楽しみを奪ったら元も子もないでしょう?そして、もしも、それが元で少数派に敵意を向ける人が出てきてしまったら、それはとても残念なことです。

私はバイセクシュアルだから、レズビアンさんやゲイさん、トランスジェンダーさんやクエスチョニングさんなど他の立場の皆さんとは少し意見が違うかもしれないです。でも1人のセクマイの意見として受け止めてくれたら嬉しいです。

でもきっとこういう声って行き過ぎたマイノリティ擁護を掲げる人には届かないんだろうな。彼らは自分を正義だと思っているから。だから、これを最後まで読んでくれたあなたには、せめて一度、行き過ぎたマイノリティ擁護について考えて欲しいです。

読みたいと思っていた本と撮影用の衣装を買うために大切に使わせていただきます。