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向こう岸に光る塔

除夜の鐘の音が聞こえてきた。そうか、年が明けるのか。会社が冬休みに入ってから大晦日までほぼ毎日アイドルマスターシャイニーカラーズを起動し、コミュを読んでいた。アイドルにクリスマスプレゼントを渡すと読むことができる特別コミュを過去五年分購入したのだが、その解放期間が三十一日までで、五年分のクリスマスコミュを読むのに数日かかった。五年経っても彼女たちは歳を取らない。そこには永遠があった。

クリスマスコミュを読み終わった後はノクチルに関連するコミュを実装順から読み進めている。というのも、樋口円香に対する向き合い方が今のままでいいのか不安になってきていた。円香とプロデューサー、円香と浅倉透、この二つの関係を同時に扱いたい。片方だけでは駄目だ。網をすり抜けてしまう。

机に前に胡座をかきコミュを追う。演出や演技も含めて体験したいので、基本的にオートで進める。集中力は数時間も続かない。飽きるし肩は凝るし尻は痛い。姿勢が悪くなり首だけが前に出る。貧乏ゆすりは激しさを増し、家が揺れているのか自分が揺れているのか区別がつかなくなる。思うのだが、テクストを読み続けるのに必要なのは体力な気がする。画面の前では樋口円香と福丸小糸が自主練として走り込みをしていた。

円香「どっちかっていうと気分転換だけど」
小糸「そ、そっか……!」
円香「体力があって悪いことはないし」

アイドルマスターシャイニーカラーズ 天塵 第4話 視界2

その通りだ。最近腹が出ていたのも嫌だなと思っていた。集中が切れたら走り込みをしよう。このあたりは起伏が激しい丘陵地帯に住宅を敷き詰めたような街で、少し歩くのでも息が上がり、短時間の走り込みでも十分な発散になる。近所の神社の参道がうってつけで、谷底から境内まで五十メートルはあるのではないだろうかという急坂があった。

大晦日は走り込みを二回行った。参道の中腹でバテてしまう。しかしこれを毎日行っていたら、いつかは下から上まで一気に駆け上がることができるのだろうか。これを一つの目標にしよう。従兄弟が小学生六年生の時に陸上100メートル走の全国大会で4位を取った時に行っていた練習方法が坂道ダッシュだったことを思い出した。

除夜の鐘はまだ鳴っている。今年は実家には帰省しなかった。祖母から催促の電話が何度かかかってきたのだが、年末年始は小説を書くからと言って断った。実家は道を挟んだ向かいがお寺で、二年参りを毎年行っていた。昔、私が小学生くらいまでは近所のひとで賑わっていたのだが、去年の二年参りのときは三組ほどしかおらず、寂しさと無常を感じた。盆踊りも随分前になくなった。かつては賑わいがあった宿場町。祖母は祖父の実家であるその家に一人で暮らしている。祖父はタイ人の愛人と暮らしている。

除夜の鐘はまだ鳴っている。いまは何回目だろう。煩悩はまだ尽きない。せっかくだし初詣へ行こう。行くなら神社かな。そう思い立ちアパートを出た。

神社は一帯でも少し高い丘陵の頂に鎮座している。アパートは神社のある丘陵の斜面を背にした谷底に建っているので、神社へは急坂を登る必要があった。家から神社へ向かう坂を登ると参道の終点の鳥居の前まで着く。参道を下ると駅だ。家から駅へ行くのにも、駅から家に行くのにも小山を越えねばならず、その度に不動産仲介業者に渡されたPDFに書かれた駅から徒歩七分に騙された気分になる。急坂でもペースを崩さない健脚なら確かに徒歩七分ぴったりだ。私はそのペースに至るまで半年かかった。

息を切らして神社の鳥居をくぐると、すでに長蛇の列ができていた。友人、カップル、家族連れ、孤独、この世の全ての関係の形態が規則正しく一列に並んでいた。除夜の鐘の音はいつのまにか聞こえなくなっていた。iPhoneで時刻を確認すると、すでに年が明けていた。酸欠で注意が向かなかったが、神社へ来る途中でドン、ドンという花火の破裂するような音が聞こえた気がする。

並んでいる間、長谷川伸「瞼の母」をKindleで読んでいた。ちょうど忠太郎がおっかさんと再会するシーンだった。幼稚園か小学生低学年の頃、この戯曲を基にした歌謡浪曲を祖母が踊りの稽古か何かで持って帰り、従兄弟と私にも倣わせた。

後ろに並んでいるカップルが妙に間を詰めてきて、嫌だった。三列にならんでくださいっていってるのに左に一列に並んでるんだもん。そう女が男に言った。私は右前へ詰めた。顔見たらさぁ、おじさんすぎるでしょ。男が言った。自分の悪口を言われいるような気がして身を縮こまらせた。気にしない、俺のことじゃない。そう心の中で唱え、読書に戻ろうとした。

忠太郎 (涙を拭うと決然と態度が一変する)おかみさん。もう一度更めて念を押しますでござんす。江州番場宿の忠太郎という者に憶えはねえんでござんすね。おかみさんの生みの子の忠太郎はあッしじゃねえと仰有るのでござんすね。
おはま そう――そうだよ。あたしにゃ男の子があったけれと、もう死んだと聞いているし、この心の中でも永い間死んだと思って来たのだから、今更、その子が生き返って来ても嬉しいとは思えないんだよ。

長谷川伸「瞼の母」〔大詰〕第二場 おはまの居間

この二行を読むのは三度目だった。

お手を拝借、いよーおっ、タタタン、タタタン、タタタン、タン。ほっ、タタタン、タタタン、タタタン、タン。おいしょっ、タタタン、タタタン、タタタン、タン。三本締めが度々聞こえてくる。見渡すとだるま売り場から発せられているらしい。境内へ至る階段で名入れだるま受付中と書かれたパウチ加工のポスターを見たが、購入されるたびに三本締めを行っているのだろうか。

賽銭箱まであと三組になった。神社の係員から三人づつ参拝してもらっているからこっちに、いっしょでしょ、ごめんねと案内を受け、隣の一人で来ているらしい男とともに前の家族連れを抜かした。孤独の形態が一列に並んでいた。思ったよりすぐに順番がまわってきたしまいお賽銭の用意ができておらず、隣の男二人に出遅れてそそくさと五円玉を投げ、二拝二拍手一拝をした。作法に気を取られ、願い事を思い浮かべるのを忘れてしまっていた。神仏への祈りは決意表明のようなものだから、後からこう願ったとしていいだろうと考え、システムエンジニアではなく創作で飯を食えるようになりたいと願ったことにした。

帰り道の途中、向こう岸の丘陵に白く浮かぶ五重塔をぼうっと眺めながら坂道を下っていると、アスファルトの陥没に足を取られて素っ転んだ。年明けから縁起が悪いなー、今年の一年の暗示だろうかと思ったが、手の届かない光でなく自分の足元をよく見ろという神仏からの啓示かもしれないと思い直した。

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