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救急車のサイレンとエレベーターの「閉」ボタン

今日のついさっき、本屋さんからの帰り道、信号が変わるのを待っていて、もうすぐ青になりそうだなって頃に、救急車のサイレンが聞こえ始めた。どうやら、わたしが今渡ろうとした交差点を通るらしい。救急車の姿が見えた私はそう思ったので、わたしはその場に留まることを選んだ。きっとみんなそうするだろうと思っていた。でも、わたしと同じように信号の色が変わることを待っていた人のほとんどが、信号が変わった時に進むことを選んだ。誰か一人が進んだから、進んだのかもしれない。列の先頭にいて、自分が進まないと後ろの人が進めない、そう思って進んだのかもしれない。とても急いでいて、心が痛みながらも進むことを選んだのかもしれない。もしかしたら救急車がここを通ろうとしていると気づいていなかったのかもしれない。救急車が渡ろうとしていることに気づいていても、気づいていないふりをして渡ったのかもしれない。どんな理由があったとしても、わたしはそれを理解することに苦しむ。

わたしは今日、明日の朝アルバイトで6:30に家を出なければならないから、早く寝よう、とは思っていたけれど、待つことを選んだ。でもきっと、アルバイトや授業に遅刻しそうだとしても、推しが出演するテレビ番組に間に合いそうになくても、わたしが列の先頭にいたとしても、わたしは進むことを選ばなかったと思う。みんな、何をそんなに生き急いでいるんだろう、と思う。

少し前に雑誌のインタビューで蓮さんが答えていたと目にしたことがあるけれど、彼はエレベーターの「閉」ボタンを押さないらしい。そのことを目にした時に「だから好きなのかもな」と思ったことを思い出した。私も「閉」ボタンを押さない人間だから。階数のボタンさえ押せば、一定時間たったら勝手にドアは閉まる。なのに、わざわざそのボタンを押す理由を、私はあまり理解できない(もちろん、自分の身を守らなければならないとか、緊急の場面だとしたら、急いで閉めた方がいいとは思う)いいとか悪いとかそういう話ではなくて、その人に流れてる時間や物事の感覚なのだと思う。そして、多分、蓮さんに流れてる時間や物事の感覚はわたしと近いんだろうな、と彼の言葉や行動から感じる。でも、きっと、誰もが救急車のサイレンが鳴ったら迷いなく止まって、道を開けて、一人ひとりがエレベーターの「閉」ボタンを使う頻度が一年に1回でも減ったら、今より少し(わたしにとっては)生きやすい、ゆったりとした世界になるのかもなぁ、なんて思った。

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