『監禁は愛ではない』

【注意書き】

このお話はあくまでフィクションです。
狂気的な考え方もある、という程度にして、雛杜雪乃というコンテンツを楽しむスパイスとしてください。
監禁・DVなどを想起させる恐れがあります。
閲覧にはご注意ください。

【前書き】

 恋人や好きな人に対して愛情表現をする時って、みんな小学生みたいな気持ちで愛情を表していませんか?

 いつ、どこで、何を、どうしたら、この人は喜んでくれるだろうか。
 社会の至る所で使われる「5W1H」ですが、愛している事を伝えるという点では全生命共通で、WhoとWhyは常に埋まっています。

『Whoは自分』で『Whyは相手に喜んで欲しいから』です。

 もしも愛情が伝わっていれば、相手はきっと喜んでくれると思います。
 もしも愛情表現が伝わっていれば、相手は何かしらの感情を抱いて、こちらに返してくれるでしょう。


 でも、あなたがしているのが、ただ愛情を表しているだけだとしたら。


『愛とはエゴである』……世間一般でいう、最低限の愛しか、持ってないんじゃないですか?

【監禁は、一種の愛情表現】

 最近、友達によく「お前の愛は重い」と言われます。
 「優しく、甘く、トキシック👅」がキャッチフレーズ。二面性隣人Vtuberの雛杜雪乃(ひなもりゆきの)です。

 自己紹介については僕の配信や、面倒であればページ末尾の埋め込みでサムネイルでも見てみてください。
 性癖の話をしたり、ゲームをしたり、書き物をしたり、企画をしたりしています。

 さて、突然ですが性癖の話をします。ロケットスタートだけど着いてきてください。良ければベビーチェアを貸し出します。

 僕の中でかなり大きなシェアを占める性癖に、『監禁』があります。

『監禁』
人を一定の場所に閉じ込めて、行動の自由を奪うこと。ーーgoo辞書より引用

 前書きでも愛とは、愛情表現とは、愛を伝えるとは、というような内容を書きましたが、僕は『愛情表現=愛を伝えること』だと思っていません。
 しかしながら、僕は監禁を「愛情表現」のひとつとして見ているので、それ自体を性癖として愛しく思います。
 矛盾していると思われるかもしれませんが、「雛杜雪乃はこの種の愛情表現を、極めて簡単な条件で好意的に見る」と考えてください。
 僕の愛が重いと言われるのは、この部分の感性のようなものが人と違うからでは無いかな? と思っています。
 誤解を招くことを前提で言うなら、倫理観が違います。

 皆さんは、プロポーズや告白に失敗したことってありませんか? 僕はあります。
 そもそも経験乏しく愛が分からない学生時代。僕自身としては本気の恋愛で、感情タイムカプセルな人間としては、今でもあの子は可愛かったと断言できるし、何かがあれば僕はあの子を助けるでしょう。
 それくらい本気ではあったのです。

 結果、僕の告白は失敗しました。
 当たり前ですね。良くて知り合い、悪ければ顔は知っている程度の相手に、なんの前触れもなく告白などされても断るのが当然というものです。

 さて、それではここで一時停止です。
『僕が行ったのは「愛を伝えること」でしたか? それとも「愛情表現を行った」ことでしたか?』
 今思い返せば、これは「愛情表現を行った」に他なりません。

 冒頭でも言った通り、『愛とはエゴ』です。僕もここに異論はありません。
 ですが、愛を伝える行為は、エゴだけでは達成出来ない。ーー人を愛するという行為の、必要最低限でしかありません。

 当時の僕も、告白やプロポーズに失敗してしまったあなたも、きっときっと、何物にも代えられない、甘く、美しく、輝かしい、相手の為だけの、業火のような愛があったのだと思います。
 しかし、人は炎を受け取ることは出来ません。

 炎を受け取ってもらうには、それを受け入れてもらえる形に、加工する必要があります。

それこそが、「愛情を表現する」と「愛情表現を伝える」と、「愛を伝える」ことの違いです。

「愛情を表現する」というのは、自分の愛を気持ちの赴くままに形にして、相手へと一方的に送り付けること。一般論で言う、『愛とはエゴである』とは、これを指すのだと思います。

「愛情表現を伝える」は、前項のような愛情表現を、相手に理解出来る形にして手渡すこと。少なくとも、自分には相手に対しての愛情があるのだと理解させること。
 その大きさ、熱量、形……あなたの愛そのものがどんなものかは分からないけど、愛はある。それを示すことです。

「愛を伝える」。前述よりもひとつステップアップして、自分の持つ愛の具体的な形や温度、方向性などを具体的に示して、相手が受けとり、その愛に理解を示すこと。
 それが「愛を伝える」こと。

 それらはひとつひとつ違い、受け取り手も、どこから受け止められるかは個人差があります。
 どれも根本はエゴで出来てはいますが、コミュニケーションまでエゴイズムであるなら、会話なんて成り立つはずもありませんよね?

 とはいえ、監禁は、ひとつの愛情表現だと思うのです。
 残念ながら愛情を表現しているのだとしても、相手にそれを受け取る下地がない。もしくは、愛情表現だと思っていないからこそ、多くの人達の愛情は伝わらず、結果として逮捕という形になるのだと思います。
つまり、未熟な愛の伝達ーー「愛情を表現する」か「愛情表現を伝える」であることが多いわけですね。

 一方監禁される側の僕は、監禁は愛情表現であり、その行為をするという事は相手の中に僕に対する愛があるんだなと思うので、2つ目のステップ「愛情表現を伝える」や3つ目のステップ「愛を伝える」だと思います。そこから、わずかな相互理解をきっかけとすることで、相手を人間とみなして快く受け入れられる訳です。

 それはそれとして、愛情表現だとしても監禁は犯罪なので、社会的にはいけないことです。愛情が伝わろうとも、最悪の手段である事は理解してください。
 多くの場合、その罪は償わなければいけません。

 余談ですが、一般社会倫理よりも、相手の気持ちを優先する事。理解してあげること。その行為自体の善し悪しは別として、「一般社会でも美徳として扱われがち」ですよね?
 僕はそれを行動として表しているだけなので、つまりは美徳ある一般人です。
 (社会的には被害者だから、僕自身が失うのは時間くらいのものですしね)

【されて嬉しい監禁】

 前項で、「愛情を表現する」「愛情表現を伝える」「愛を伝える」は別だということを解説しました。

 しかしながら、監禁という行為は多くの人間を恐怖に陥れます。
 前項での引用の通り、監禁は相手の自由を奪うこと……ひいては、「相手の尊厳や権利を無視して愛情表現をしていること」に他ならないからです。

 では、どんな風に監禁をすれば、相手に恐怖を与えずに愛を伝えるーー監禁できるのでしょうか?

 それは「相手に自由を与えること」です。

 一見、監禁するという行為は相手の自由を奪う事を前提としており、「相手に自由を与えること」とは矛盾してしまいます。
ですが、よく考えてください。あなたは今自由ですか?

 欲しい物は全て手に入っていて、生活にも困らなくて、やりたい事は全てが叶い、法律やルールにも縛られず、欲求と本能と狂気の赴くままに行動が出来ていますか?
 決してそんなことは無いはずです。

 現代社会に生きている以上、全ての人間は不自由に縛られています。
 悪役的な言い方をすれば、全ての人間は現代社会の檻に閉じ込められている(=監禁されている)わけです。
 しかし、ほとんどの人はそれに無自覚で、むしろ肯定的に捉えています。なぜなら「自身が思う中での自由を謳歌している」からです。

 そう思うと、監禁って非常に幅広く考えられませんか?
 一定の場所に閉じこめることーー拡大解釈をすれば、将来も含めて、自分の手の届く範囲に閉じ込めてさえいればいいんですから。

 だったら、あとは一般社会の愛情表現さえしていれば問題ないはずです。
 相手に望むものを与え、思い出を重ねて、苦難を共に乗り越えて、いずれは終わりを共にする。
 本心さえ知られなければ、なんと素晴らしい愛情の紡ぎ方でしょう。文句を言う人はいないはずです。

 それと同様に、監禁だって相手が嫌がらない範囲で自分の手の内に閉じ込めてしまえさえすれば良いのです。
 鎖の上のベッドで不自由なら、部屋の一室に。部屋の一室で狭いのならば、マンションの一室に。マンションの一室で物足りないのならば、歩いて行ける範囲まで。
 通勤圏内で? 車で? 電車で? 飛行機で?
 ……人はどの範囲ならば、監禁ではないと思うのでしょうね。

 これも結局、物理的な話ではないはずです。あなたの望む相手が、どれだけ心理的に自由を感じているか、幸せな関係を築けているか。
 そこに注目しさえすれば、監禁なんて容易なものです。

 相手が許せる範囲の物理的な檻を設定し、相手が不自由と不満を感じない程度に相手を縛り付けて、二人を中心とした生活をする。

 これこそが、「されて嬉しい監禁」だと、僕は思います。

【気持ちの鎖は死後まで届く】

 前項では物理的な監禁の話をしましたが、僕は本項の「精神的な監禁」の方が、二人の関係性においては重要だと考えます。

 さて、「精神的な監禁」とはどのようなものでしょうか。
 僕は、『自分が許せる範囲で相手を自由にすること』だと思っています。
 監禁とは「相手を一定の場所に閉じ込めて、行動の自由を奪うこと」なので、別に相手に不自由を感じさせるほど縛る必要は無いはずです。

 監禁を愛情表現とする人は、往々にして「相手を管理したい」「相手の全てを知っていたい」「悪い人に毒されて欲しくない」などの感情を持っているのだと思います。
 一般的には、これが行き過ぎて物理的手段に出た結果、犯罪者の仲間入りを果たしている事が多いと思います。
(逆説的に、愛がなくてもこれらを満たして監禁しているから、自分には愛があると言い放つ人もいますが。主義的にも例外とみなします。おこです)

 その上でいいますが、監禁は、愛情表現として非常に不適格な方法です。
 ここまで時間を割いていただいた皆様は、すでに感覚が麻痺していると思われるので、改めて当然の事を言いますが、「監禁は被監禁者の人格を歪めます」。

 人間は社会性の生き物であり、他者の干渉に対して何らかの影響を受けずにはいられません。つまり、一般的な監禁は被監禁者に多大な干渉を及ぼす以上、監禁したいと思っていた人物とはかけはなれた存在ーー都合のいい人形を作る手段と、紙一重であるのです。

 これでは、監禁は愛した相手を失う行為であり、愛したいと思った対象を永遠に愛することはできません。

 これを解決する方法が、「緩んだ鎖で縛ること」です。
 前項でもお話しましたが、人はみな一様に不自由ですし、何かに縛られています。
 監禁者が気付いていないーーもしくは目を逸らしているだけでーー愛しい人は常に変化し続けている。そして、それに抗うことは出来ません。

 変えたくない、けれど変わってしまう。
 だったら、「自分が許せる方向に変えればいい」。
 鎖の重みを感じないように、まずは軽くて些細なものから。少しずつ、アリの歩みのように少しずつ。
 望ましくない変化を、被監禁者自らが避けていってしまうように、軽くて見えない鎖を、張り詰めて気付かれてしまわないように「緩んだ鎖で縛る」のです。
 人間の変化は、親しい人間、近しい人間からの影響であればあるほど、大きくなっていきます。
 ほんの少し前までの時代。許されなかった恋愛関係の痛みを少しでも誤魔化す為にしていたように。愛しい人を少しでも自分の手元にあるものに変えてしまう為に、幼馴染の、友人の、親友の、数少ない愚痴を言える友達の立場のような存在となり、少しずつ鎖をかけていきましょう。

 許せない行いと思うでしょう。願望がそういう物だと自覚すれば、呵責に苛まれるでしょう。
 ーーあなたがやらなくても、他の人は無意識にやっていますけどね。



 個人の意見ですが、魂とは、肉体と精神に深く干渉するあるものだと思っています。
 つまり、相手が広く手の届く檻の中で、緩んだ鎖で自らが縛られてくれる存在だとしたらーー監禁は、死後にも届く鎖となるでしょう。

【総括】

 ここまでご覧頂きました皆様、誠にありがとうございます。
 物理的な広い檻、精神的で緩んだ鎖。これらをもって、雛杜雪乃がされていたい、理想の監禁像を述べさせていただきました。
 皆様が監禁にどのような理解、感覚を覚えたか、僕には分かりません。もしかしたら、将来似たような出来事に出会うかもしれません。
 その時は、このnoteを思い出してください。
 あなたが監禁されることを望まず、理解を示す気もないのだとしたら、それに付き合う必要はありません。

【後書き】

 今回は雛杜雪乃の性癖『監禁』、その本質的な部分について筆を執らせていただきました。

 これらはあくまで考え方の部分であり、その為の手法やテクニックについては言及しません。このnoteは犯罪を助長する目的で書いたものではないので。

 雛杜雪乃が、常々されてみたいと思っている『監禁』。その理解の一助となり、また僕を楽しむための、取扱説明書のひとつだと思っていただければ何よりです。

 いつもは優しく穏やかな、あなたを甘やかす隣のお兄さん。そんな僕が寒夜に述べる、ほんの少しのトキシック。
 そんなお話でした。

【参考・自己紹介URL】

『自己紹介』
https://youtu.be/wUu4r5nDy-8

【性癖ではなく】#ゆきの性癖博覧会【好きなだけ】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLADh9Bd0u4-ROOLInCTiHydAf8WvA4QT3

『原罪(セイヘキ)』と『現在(マイブーム)』を語る、シスター雛杜の #ゲンザイラジオ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLADh9Bd0u4-S_84pQJb59zkLygsvOblyy

【創作】コメントした人全員異世界転生させる【なろうファンタジー】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLADh9Bd0u4-QxDgAzwgwhxl6u1fEPj9h5

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