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目に見えるものと、見えないもの。デジタルコミュニケーションで失うものは何か

バリ島の人たちがもつ精神の中に、「Sekala Niskala(スカラ ニスカラ)」という言葉があります。

意味は、「目に見えるものと、見えないもの」。
物事には、目に見えるわかりやすいものと、そうではないものがあると、当たり前なようで忘れてしまいがちなそのことを言葉にしているのだと思います。

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この「目には見えないもの」の価値をあらためて感じている、ここ最近。

成果とか追うべき目標のようなものにだけでなく、誰かの発言に対するリアクションだとか、人間関係さえも「目に見えるようにしたい」という空気を感じます。

早く、できるだけ大きく、適切なリアクションを。

ビジネスの場だったら、そういうことを求める気持ちもわからなくはない。けれど最近は、暮らしの中にも求めているように思うのです。


別に、それが悪いと言っている訳ではありません。みんなが求めているから、リアクションや反応はどんどん早く・大きく・適切にとなっているのだと思いますし、便利だったり都合が良かったりするのも事実。


ただ、「目に見えないもの」が失われているような気もします。

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たとえば、相手を思う時間と、相手との適切な距離。


早いリアクションがきたら時間は得しているって、本当でしょうか?


相手からの返事があるかどうか、その「期待」を捨ててしまえるとしたら、早いリアクションよりも”温かい”時間が、手元に残るのではないでしょうか。

もっと、具体的にしましょう。

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あなたが、手紙を書いたとします。

もちろん手紙の内容にもよりますが、私は、手紙の場合は相手からの返事を期待しません。返すか返さないか、いつ返すか、そういう選択肢は全て相手にあって、私が決めることではないのです。

手紙を書くのには時間もかかって、ポストに出しに行くのも時間がかかる。そこから相手に届くまでも、数日かかります。

それくらい時間をかけたとしても、相手に返事を書く義務はない。

これって、当たり前のことではないでしょうか。

相手に思いが届こうが、届かまいが、私のできることは全てやっていて、私と相手の「あいだ」に適切な距離がある。
そう感じます。

私の手元に残った時間。それは、相手を思って手紙をしたためた、くすぐったくて温かい時間です。


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一方で、LINEやSlackのやりとりに置き換えてみましょう。

ものすごく思いを込めて長文を書いたり、パッと数秒で考えを送ったりすることがたくさんありますね。

送った後、リアクションを”平常心で”待っていられる時間は、どのくらいでしょうか。

何もリアクションがなかったり、既読スルーだったり、何人もいるのにスタンプが1つもつかなかったり。そういう時間が長いと、なんだか否定された気持ちになったりします。

ただ、リアクションがなかっただけなのに。

相手にリアクションを求めるのを、当然と思ってしまう。その感覚は、相手との距離感を近くにしすぎているように思います。

そして私の手元に残るのは、相手をなじってしまう寂しい時間。毎回ではありませんが、そういうことが多いなと感じます。

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繰り返しになりますが、デジタルのコミュニケーションが全て悪いと思っている訳ではありません。

人との言葉や気持ちのキャッチボールの全てをデジタルに任せてしまったら、「目に見えないもの」は失われてしまうのではないか、ということです。


最近会っていない人に、なんとなく手紙を書いてみる。


そんなことをたまにするだけでも、「目に見えない」けれど大切なものに心が温まることってあると思います。


大切な人との言葉と気持ちの行き交いは、人生の喜び。

その行き交いが、もっともっと幸せなものになるようにと、願っています。



言葉で、日々に小さな実りを。そんな気持ちで文章を綴っています。