新年を迎えて

あけましておめでとうございます

喪中なためこの挨拶は適していないが、新年はこの挨拶がないと始まらないような気がするのであえて使うことにした。

年末年始感がないまま2022年に突入した。ここのところ年賀状は自分から出すのをやめしかも喪中なため一枚も出していない。しかも怠惰なため喪中のお知らせを出していなかったため年賀状が届く。さすがに無視するわけにはいかないので、慌てて寒中見舞いのはがきの印刷をネットで注文した。

かつてから家族で集まる習慣がなかったが、母がいない年末年始は今まで以上にそれぞれの時間を過ごしている。だからといって仲が悪いわけではなくそれぞれの生活を大切にしている。ただこの時期の買い物は家族ばかりでありその姿をみては寂しさを感じる。一人でいる自由さと家族の温かみの両方が欲しい。それはわがままかもしれない。

新年だからといっても抱負を考える気がしない。今日は昨日の続きと思っているからだろうか。別に前向きでもないが後ろ向きというわけでもなく、たぶん自慢でないが一度も抱負を掲げたことがない。「これをやる」「あれをやる」は「やらなくてはいけない」に変わってしまうことが多い。それではったく意味がない。理屈をこねているように見えるが簡単に言えば「ナマケモノ」なのだと思う。許されるのであればずっとゆるゆるしていたい。

書くこと

「書く」に関して「書かなくちゃいけない」と思うようになった。面倒に思うことが時々あるが、それ以上に気負いのようなものがある。読まれることを意識してしまい「こんなことを書いたら批判されるだろうか」と筆(キーボード)が進まなくなってしまう。約4年半noteで書いているがここまで書けないと思ったことは今までなかった。「つくる、つながる、とどける」というnoteのコンセプトから私は離れている。今の私はあえてつながらず、声をとどけることなんて全くできていない。自分の叫びを書くのが精一杯なところ。先に抱負は掲げないといったが、今年はそういったことを肯定する。それを一つの抱負としようと思う。

2022年

2021年はどんな年になるのかはわからない。結局は、ただ「自分の思いという流れ」に逆らわずにいくだけなのだろうと思う。

新年を迎えて(2021年1月1日)

昨年そんなことを書いていた。今思うと「自分の思いという流れ」とは何だったのだろうか。過去は変えられないが未来は変えられるという。「変えられる」という言葉の通り目に見えないだけで「未来は決まっている」ということなのだろうか。もしかすると「自分の思いという流れ」はその未来を変えることかもしれない。自分の直感のような願望を信じてみたいと思う。もう一つの抱負とする。

結局、抱負を掲げた。それは穏やかに過ごしたいという願望とこの先の希望を求めた。楽観的だがきっと今年は良い年になる。

本年もよろしくおねがいします。