その唇は僕の心を刺してくる
夜明け間際の三日月はまるであの人の下唇のようだった。僕はあの感触を思い出したくて手を伸ばして月をなぞった。
僕の指は何にも感じなかった。ただ思いだけが募っていく。
もう誰かを愛することなんてないと思っていた。残りの人生はただ静かに生きられればよかった。きっとこの先の人生を諦めていたのだと思う。
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あの人の声が突然僕の中に入ってきた。
それから、気がつくとあの人を追っている。
時々髪をかきあげるときに見えたうなじと揺れるピアス。そしてその涼しげな目元。こんなに美しかったのかと感じたとともに、どことなく何かを抱えているのではないかと思った。穏やかなあの人の中に弱さを見た。
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どうしてあの人の声が僕の中に入ってきたのだろう。それまでも何度となく話していたのに今さらという思いだった。あの人はいつも自分に言い聞かせるように話していた。
もしかすると僕に助けを求めていたのではないか。
それは僕のうぬぼれかもしれない。けれど僕を求めているのならばあの人の抱えている何かをほどいてあげたいと思った。そんな思いが日々募っていく。
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あの日、僕はあの人の下唇を人差し指でなぞった。あの声がこの唇から発せられたと思ったら触れずにいられなかった。
けれど、これ以上近づいたら壊れてしまいそうだ。
あの人も、そして僕も。
あの人は決して拒まなかった。ただこれ以上踏み込んでいいのかわからない。けれどどうにも思いを止めることができない。きっと僕は身勝手な愛とわかっていながらも愛していくのだろうと思う。
あの唇に触れる前までは募る思いを伝えられない苦しみが、触れてしまった後は守り続けたいという心の痛みが、
まるでナイフのように僕の心を刺してくる。