手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――(約23,000字)

比那北幸(ひなきた こう)

はじめに

手塚治虫という人物の風刺精神に関しては、その明確な表明もあって、よく知られるところである。手塚の著書『マンガの心 発想とテクニック』(註1)のあとがきのQ&Aから引用しよう。

Q「漫画というものの本質を、ズバリひと言でいうと、なんでしょう」
A「風刺ですよ」(註2)

それゆえ、膨大な手塚論や作品論において論者がその風刺精神に触れる場面にしばしばでくわすことになる。米沢嘉博は「マンガには風刺が不可欠であると答えたことのある手塚」(註3)という前提のもとにその風刺性を見ている。呉智英は手塚の態度を「不信の姿勢」(註4)や「批判精神」(註5)と言い表わし、藤川治水は「抵抗精神」(註6)として見る。長谷川つとむは、出所は不明ながら手塚の発言として「漫画の目的の一つに権力への風刺と警告があるのに」(註7)と記しており、また開高健は「チャプリン〔ママ〕」「ハックスリー」「オーウェル」(註8)ら、その風刺性が世界に鳴り響く表現者たち同様に手塚マンガを鑑賞すると表明している。これらの言及はごく一部でしかないだろう。しかし筆者は本論文において、手塚の風刺精神に関するこれまでの追求は決して十分ではなかった、と主張するものである。

これまでの論は『手塚治虫 漫画の奥義』(註9)で述べられている、以下の点を重要視していないのではないか。

言論弾圧や思想統制があっても、僕は描くね。手鎖はめられても足で描くよ! 描くだけでなしに見せますね。それで殺されるのであればしようがないと思うけれど、そこは便法でね、殺されないで見せられる方法を考えるよ。(註10)

相手に刺激を与えず、自分でうまく世の中を立ちまわりながら、うまく自分のいいたいことを何らかの方法で、読者に与えていくという姿勢がね、ぼくは素晴らしいことじゃないかと思うね。(註11)

そこで正面きって、〝おれはこれで〟といってビラをまいたりしていては、ダメだと思うのね。なにかうまい方法を見つけ、相手をだましだまし、自分の心情をうまく伝えていくことだと思うのです。(註12)

このように語った手塚が、実際に日本がGHQに占領されていた時代を過ごしていたこと、検閲下において漫画を描いていたこと。これらの条件を前提とすると、以下のように推測することが可能だ。手塚は検閲をかいくぐる「うまい方法」によって「うまく自分のいいたいことを」「殺されないで見せ」ていたのではないか。ゆえに今、1948年2月発行の手塚治虫の漫画、『地底国の怪人』(以下、『地底国』)を再検討する余地が生じるのである。

『地底国』を含み手塚を論じたものとしては伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』(註13)があるが、これはマンガ表現論の視座からのもので風刺や検閲とは関係がない。風刺漫画研究の方面には多くの著作がある清水勲がいるが、手塚マンガやその風刺性に触れることはあっても『地底国』のような長編ストーリー漫画を風刺寓話として詳細に論じようという発想はないようである。(註14)GHQ占領期の手塚や戦争との関連については夏目房之介の『マンガと「戦争」』(註15)があるが、『地底国』は論じられていない。しかし同書では「手塚の架空寓話戦争」(註16)「手塚マンガに始まった架空寓意的戦争」(註17)「戦争寓話」(註18)といった表現が用いられており、物語と戦争との関係を前提とする点で、また寓意、寓話という観点において、本論文のアプローチと共通している。

本論文の目的は、『地底国』を風刺寓話として解釈し、それによってこれまで(少なくとも表立っては)論じられてこなかった手塚マンガの風刺性が検証可能であることを示すことにある。(註19)

本論文の以下の構成は、まず方法・仮説を提示し、次に分析を実行し、最後に結論、そして本論文の視座に立ったとき初めて見出せる先行研究のあり方とその内容・形式を記すことになる。

ではそろそろ、手塚の検閲下における情報戦の爪痕を探り当てていくことにしよう。

特徴と方法

さて、『地底国』を風刺寓話として解釈し直すべく筆者が用意した仮説とはこのようなものである。戦後日本にとって重要な歴史解釈・歴史認識や一定期間・範囲の国際・国内情勢をプロット化し、そこに登場する個人・各組織・諸集団やそれらに内在する諸特徴をキャラクター化し、それらを偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく(物語内外問わず)様々な手法によって歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起を企てつつ、物語全体を寓意として設計・解釈・構成する試み。

この仮説は主として創作に関する仮説だが、推敲という創作過程は読解・解釈を創作に包含させるため、それらも仮説に含まれる。ゆえにこれは、解釈の仮説としても成立する。

この風刺寓話に関する仮説の中心概念は寓意である。寓意が「曖昧(オブリーク)」(註20)かつ「本質的に不明瞭」(註21)な表現方法であることは否定のしようもない事実であろう。とはいえ寓意は存在する。図像学や寓話の存在を否定することがナンセンスであるように、新たに試みられている寓意の読解を否定することもまたそう解されると推測できる。

つまり本論文では『地底国』をジョージ・オーウェルの『動物農場』(註22)に類するものと見做すのである。ただし、風刺の意図を隠蔽されたものとして。「日本の新聞規制に関する覚書」(通称「プレス=コード」)(註23)を基準とした事前検閲が行われている最中の出版であるから、意図的に伏せることが戦術として成功したのではないだろうか(この傾向が検閲消滅以後も続いているのか、もしそうならなぜなのかについては本論文では触れない)。

仮説についての説明を続けよう。作品は戦後以降を対象に、寓意の対象となる範囲を定める基準は戦後日本にとっての重要度の高さに設定した。GHQによる検閲下において、漫画によって歴史認識を表現しているかどうかを見極めるための基準なのだが、寓話としての対応関係が『動物農場』のようなシンプルな場合だけでなく複雑さを伴う場合にも適用できるよう措置した。

キャラクターに関して。特に一定期間の国際関係を寓話化する場合に、国家、国家の1側面を担う集団、あるいは象徴的な個人の寓意としてキャラクターがデザインされると想定するのは妥当であると言えるだろう。その際、キャラクターはモデルに対応する観念を抱きつつ、なんらかの形で表現のもととなった歴史上のなにかをまとい、相互関係によって歴史を再演することになる。

分析を先取りして具体例を挙げよう。「ふしぎなウサギ」(註24)(p.16)(註25)、「ウサギのおばけ」(p.32、1齣)と呼ばれる耳(みみ)男(お)は「科学のちからで」(p.20、2齣)「すっかり 人間なみ」(p.25、3齣)になったとされる。この耳男を表わす「ウサギ」という文字表記、およびウサギの性質が大いに残留する耳男の図像を、記号的および意味論的に変換し、アルファベット表記に書き換えることで、The United States of Americaの略称を含むUSAGIとして読解する(註26)ことができる(以下、こうした読解の際に(寓意表現 アメリカ)(註27)のように括弧書きで補足する)。また、「地底国の 女王」(p.84、2齣)率いる「白アリか 何かの 昆虫が 進化した」「みょうな 生きもの」(共にp.101、2齣)たちは、「白」「昆」のうちに日本の日の文字表記が(「虫」には90°回転させた状態で)含まれている。また「昆」の下部「比」は日の音読み、ヒを2重化した文字表記であり、音韻も一致している(寓意表現 日本)。

風刺寓話において、このような文字表記、音韻、(註28)図像、意味といった諸体系を横滑りさせる記号・意味論的操作が寓意の澪標となり、字義および図義通りの読解の彼岸、寓意的意味へと鑑賞者を導引するものと仮定する。斯くの如き名詮自性めいた表現は無論のこと、プロットやシチュエーションとの適合的な連関関係による歴史の再演や寓意を総合として認識するための欠くべからざる1機能を担うことになる。記号・意味論的技巧による刻印が存在しない場合を想定してみよう。そのような作品は、歴史に対応したプロットを備えていながら確率的な希少例である公算が高いと判断されてしまう。風刺の意図を署名するには、歴史の流れを正確に写し取るだけでは足りない。記号・意味論的刻印によって表層レヴェルと寓意レヴェルを連結させる必要がある。

前述のように、歴史や寓意と作品との関連性に向けての鑑賞者への注意を喚起する企ては「物語内外問わず」講じられるものとしている。物語内的なものは記号・意味論的刻印を含む各種技法、物語外的なものはあとがきやインタビューをはじめとした多種多様な方法が考えられる。本論文のケースでは前述の引用部を示した。(註29)

さて、これでどうやら出発の準備は整ったようだ。ではさっそく次節よりアレゴリーの水路を渡りはじめることとしよう。

分析

分析には大別して2通りの観点がある。ひとつはプロットやキャラクターの行為と歴史との対応関係を検討する、展開や時間軸に比重を置くもの。もうひとつは作品を歴史と連結する寓意の存在を示そうとする、様々な手法に着目するもの。以下の分析では前述した耳男と白アリの寓意を前提に、展開の歴史との対応を検討しつつ、必要に応じて適宜鑑賞者を寓意の存在へと導く手法も検討しよう。

さっそくはじめよう。まず、既に述べたように耳男は「科学のちからで」「すっかり 人間なみ」になるのだが、それ以前から、自分がバカにされたことを察して手の込んだ報復をする(p.18~p.19)という、ただの動物とは思えない知能の高さをみせる。このような社会進化論がダーウィニズムを通じて借用した博物学・生物学を返却するかのような表現によって、独立以前のアメリカが表わされていると読める(寓意表現 植民地時代のアメリカ)。その後、「すっかり 人間なみ」になった耳男は自分をバカにした学者に対して自らの非礼を丁寧に詫び(p.26、2齣)、「人間の言葉を 1分間で おぼえ」「自分では ぼくは 人間だと 思って いる らしい」(p.27、1齣)と学者たちの話題に上り、5桁の乗算を暗算で(推定)数秒のうちに正答する程になる(p.27、2齣)。歴史は浅いが能力は高い、しかし人間のつもりでいながら当の人間からは決して同族とは見做されないこうした存在の仕方は、本国イギリスと次第に対立を深刻化させ独立に向かうアメリカの動きにつながる潜在的な国力と被支配状況を示し、ついに大学の外に出た耳男は新聞記事になる程街を騒がせ「どこへいっても 化け物あつかい」(p.35、2齣)されるものの(寓意表現 独立に向かうアメリカ)、ジョンにかくまわれる(p.35、3齣)ことで新たな米英関係を結ぶことになる(寓意表現 アメリカ独立)。耳男との関係と名から推測して、耳男で実験していたノートル大学(ノートルダム大学や寺院を想起させる)や学者たちをアメリカ植民地とその本国、ジョン(「イギリス人の象徴とされるジョン・ブル」(註30)と同じ名)をイギリスと見てよいだろう(寓意表現 アメリカ植民地とその本国、イギリス)。(註31)

ジョンは地球を貫くロケット列車の開発計画を語り、耳男は助手になる(p.36~p.37)。そしてロケット列車は完成し出発、いくつかのトラブルを乗り越えて地球の中心に辿り着く(p.40~p.57)。そこでジョンが記念にと岩に彫ったのが「ジョン 耳男/○月○日/ここ中心を征服す」(p.58、3齣)であることは、「自由貿易帝国主義」論(註32)や「太平洋の橋」(註33)といった米英による植民地の獲得や利権拡大を前提とした侵略的傾向を示すと同時に、地球というほぼ球形の惑星の中心に辿り着いたこと自体が球→円形→日の丸という記号・意味論的操作により(また「中」に90°回転させた日が見られ、かつ「心」を北海道・本州・四国・九州の四島の図像的抽象化と再配置と考えるならば)、米英帝国主義の日本への到達を意味する(寓意表現 米英帝国主義勢力の拡大、日本への到達)。途中で菊石類のアンモン貝の化石(円形で、かつ皇室・皇族の家紋である菊が共通する)が発見される(p.47、1齣~2齣)のはこれらの前触れである。

ジョンと耳男は地球の中心で大量の地下水に押し流され(p.60~p.62)、危機に陥るが自力で切り抜ける(p.76~p.77)。この状況は東アジアや極東における国際・国内情勢の大変化を表わし、第2次世界大戦に向かう日本の近代化の推進・帝国主義化、日露戦争、帝国主義諸国の権益の拡張や特殊利益防護、第1次世界大戦やその後の「持てる国」に対する「『持たざる国』の挑戦」(註34)などの他にも、該当の期間に起こった多くの事実が含まれるだろうが、特に耳男がジョンの「足にへばりついていた」(p.77、2齣)のはこの期間の米英の接近(東アジアでは「極東の憲兵」(註35)たらんとする日本にロシア南下抑止の効果を期待し、第1次世界大戦では協商国陣営に属すなど)を示す(寓意表現 米英の接近、東アジア情勢の変化、日本の台頭)。

ジョンと耳男は地球の中心で「夢の宮殿の よう」な場所に入り込み(p.79)、「地底国の女王」自身が語る身の上と目的を知る(p.84~p.88)。かつての地上での暮らしを取り戻すべく「攻めのぼ」(p.87)らんとする女王は地上への「あこがれ」(p.88、1齣)を語った後、「人間は陸も海も 空も征服した…」「そして今度は 地球の中まで はいってきた ああ もう がまんが できないわ!」(p.88、2齣)とついに「地上征服」に乗り出す(p.88、3齣)。連絡がないためジョンたちの捜索を開始したロケット列車建造工場長ビルら(p.63~p.64)は地底国側に捕らえられ、女王から「相談」(p.85、2齣)されるが、それは銃を突きつけられた脅迫(「あたしの 地上征服の 仕事を 手伝ってくれる? イエス? ノウ?」(p.88、3齣))であった。人間側から欲に目がくらんだハム・エッグが裏切るものの(p.89)、ジョンと耳男がビルらを救い出し、辛くも地上へ逃れる(p.92~p.95)。既に述べたように女王(高貴な統治者)含め地底国は日本であるから、このシークエンスで米英と日本は決定的に敵対し、第2次世界大戦に突入、「地上の 世界を すっかり ぶッこわす」(p.98、3齣)べく「地上へのぼって」(p.95)きた女王たちが起こす爆破事件は、日本の初期作戦の奇襲と見做せる(寓意表現 対米英開戦、初期作戦の成功)。

「ロケット列車 第2号」の研究を進めていたジョンたち(p.101)はハム・エッグらに大挙して隠れ家に「なだれ こ」(p.103)まれ、「ロケット列車 の設計図」(p.105)を奪われ(p.103~p.107)、全滅の危機に陥るが切り抜ける(p.108~p.110)。これはハワイ空襲に1例が見られる詰めの甘さや戦略的見地からの戦果の程度を表現していると言える(寓意表現 日本の作戦計画および遂行能力と連合国側の損害の程度)。

設計図を奪われたジョンたちは研究のためにノートル大学に技師の派遣を依頼、ビルに追い出されていた耳男(p.112~p.113)が人間に変装し、女性技師ミミーとして現れ(p.118~p.119)、ジョンとビルに合流する。この後、ひとつのエピソードを挟んで人間側の総反撃が始まることから、「もう一度 地底に ゆく」(p.101、1齣)ために必要な設計図の喪失とミミーの登場は戦局の変化と連合国側の体制の変化に対応している(寓意表現 連合国側の戦局・体制の転換)。

敵の隠れ家を知ったジョンはビルらに先行して単身乗り込み、雑魚を蹴散らし女王と対峙するも、女王の化石ダイヤによって石にされてしまう(p.123~p.126)。日本の勢力圏に踏み込んでの連合国側の反撃なのだが、連合国も無傷というわけにはいかなかった(寓意表現 勢力を失っていく日本)。ビルが大勢の警官を連れて隠れ家に到着、石になったジョンを発見したときには部屋に閉じ込められて毒ガスを浴びせられるも、女王とハム・エッグの対立により九死に一生を得る(p.127~p.133)。前段からの状況は深刻化し、損害を与えながらも日本は追い詰められていく(寓意表現 勢力を増す連合国、失っていく日本)。

追い詰められた女王は外へ「とびおり」(p.135、1齣)るも、翅によって逃げ延び、車で逃走。カーチェイスと銃撃戦の最中、運転していた「こども」(p.136、1齣)の予想外の反抗に虚を突かれ、化石ダイヤと設計図を奪われた女王は車ごと崖から転落し最期を迎える(p.135~p.139)。地底国との戦いはこれで終止符が打たれた(寓意表現 日本の敗戦)。

化石ダイヤによって石になっていたジョンとハム・エッグは、化石ダイヤのもうひとつの作用によってもと通りになり、ハム・エッグは「改心」(p.141、3齣)する(p.140~p.141)。これは特にイギリスの権益や大国としての威信の一時的な回復(寓意表現 連合国の戦後処理)と、「一億総懺悔」(註36)や極東国際軍事裁判を示していると言えるだろう。元々はロケット列車建造工場の技師長(p.40、1齣)だったハム・エッグが捜索隊に参加(p.65、2齣)しながらも地底国側に寝返るのは、日本が一時は米英と利害が一致し、同盟を結び支持を受けるなど接近した時期がありながら、次第に不一致の度合いを深め開戦にまで至ったことと、大筋で重なる。名を見れば、断面が円形になる加工食品である「ハム」の薄切りを、黄身も白身も丸みのある形状に焼き上がる目玉焼き(sunny-side up)と共に調理する料理の名だ。これらは円や「目」(→日)や「焼」(左部にある「火」→音韻が、ひ→日、燃える太陽を象徴する日の丸)やsunnyなど日本や日の丸に結びつく記号・意味論的経路を有する。つまりハム・エッグと白アリは相同の関係にある。女王にだまされたと気付いて歯向かい、女王に石にされながらもビルたちを救った(p.131~p.133)その精神は、当時の日本人による国への不信や怒りが込められたものなのだ。ともあれ、死する女王に対して、生き延びたハム・エッグが「罪を おかし」たと認め「法のさばきに 服」すと言明する(p.141、2齣)ものの刑が確定し執行される描写がないのは、制作・発行当時極東国際軍事裁判は未だ審理中であった(註37)からだと見られる(寓意表現 日本)。

白アリについて。実在するシロアリの食性は主に植物質であるから、木や木材の柱を食い荒らすこと、また日本において神や貴人を数える単位が柱である(註38)こと、さらに日本神話の中の神に寿命が与えられるエピソードで中心的な役割を果たす神が木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)である(註39)ことなどを念頭に置いてみる。そのようにしてみると、作中の白アリは、木や柱(柱という文字表記には「木」が含まれる)を食い傷つける性質を有する実在のシロアリを祖先としていることで、神の命が限りあるものになったとされる神話的エピソードに類比し得る出来事においてある役割を担う者となり、木や柱で寓意的に表現され得る存在を損ねる方向に変化させたものとして、理解されるであろう。そのとき白アリは、いわゆる「人間宣言」(「象徴天皇制への転化」)(註40)の原因でありながら、その女王(高貴な統治者)が対象にもなったという自傷的なねじれを内包し、また同時に戦争指導者たちや実戦に参加した兵士まで一体となっているものと判断できる(寓意表現 ミカド、大本営、日本軍)。

プロットの分析に戻ろう。「ロケット列車 第2号」(p.142、1齣)が完成し、ジョン、ビル、ミミーが再び地底へ向かうも、地底国は「地底火山の 噴火のために あとかたもなく 滅びて しまっ」(p.146、1齣)ており、熱で倒れたジョンとビルに代わって操縦を続けたミミーは無事ロケット列車を地球の反対側に到着させるも、大やけどを負って入院してしまう(p.142~p.151)。世界大国としての地位回復を目指すも47年8月にインド、パキスタン、(註41)48年1月にビルマ(註42)と次々に独立を許し、その道を閉ざされつつあったイギリス(註43)と、敗戦によって日本による欧米帝国主義諸国への反抗の芽が潰えたことが、ここに示されている(寓意表現 英帝国再建の挫折、日本敗戦と占領による「戦後改革」(註44))。「地底火山の大噴火 のために 地底国は滅び 昆虫軍の 襲来の おそれは まったく なくなり ました/これで地上は ふたたび平和な 時代になるでしょう」(p.151、1齣)というビルの台詞は象徴的だろう。「けむり」(p.143、3齣)や「火熱」(p.146、2齣)といった噴火の影響によるものは、本土空襲や原爆投下などの戦禍をイメージさせるものでもある(寓意表現 日本の戦禍)。

しかしながら終局でいささか奇妙なことが起こっている。アメリカの寓意であったはずのミミー=耳男が程なく命を落としてしまうのである(p.152~p.154)。これを歴史上の事実に還元するとすればアメリカの敗北と解釈することになるだろうが、当然そのような事実はない。では物語の最終局面で描かれるこの展開は一体なにを示すのか。その鍵は死の直前の展開(p.152~p.153)にある。ミミーは耳男だけでなく、女王を墜死させ化石ダイヤと設計図を奪い返した「こども」でもあったのだった。耳男がビルに追い出された(p.113)すぐ後に現れた「こども」はハム・エッグの一味に加わり(p.116)、それ以降(表向きは)地底国側に属することになる。このことは、耳男にはハム・エッグに近い形での「こども」という日本の寓意としての側面が備わっている可能性を示唆する。これを前提すると、ミミーが重体に陥るのは日米ふたつの寓意を持つ耳男の一面としてであり、日本の寓意としての必然である。ここで「耳」の中心部や「男」の上部に日を見出し、同様に「ミ」を日の変形、欠損としても判断できることを補強材料とすることで、耳男を日本の寓意として捉え直し、分析をはじめからやり直すことができる。この場合、ミミーはジョンやビルのように外来に属する名であり、かつその文字表記が星条旗の縞模様と幾何学的に類似するため、そのアメリカ性を失うことはない。また耳男、「こども」、ミミーなどといった図像や名称上の差異が寓意の変化、その強弱の変動や寓意同士の混入を示すことと、ハム・エッグ一味の「笑いの 面」(p.114、3齣)や女王の「人間の マスク」(p.99、1齣)などが同一の意図の表現、すなわち寓意(見た目通りではない意味の付与)への注意喚起となっていることがあわせて裏付けとなる。以上のような様々な見解を抱え込みながら、分析は閉じかかった「おしまい」の札の付いた扉(p.154)を押し開き、異なる視座から改めて物語の中を泳ぐ。

では改めて、日本の寓意として耳男の辿る道を検証してみよう。歴史がある程度抽象化されてプロットに重ね合わされているのであれば、以下の比較は寓意として対応している。まず耳男のウサギ時代の知能の高さや学者らによる改造、改造後の「人間化」(p.20、2齣)と、日本に潜在した自存自衛および反欧米帝国主義の素質や開国や欧化主義や近代化の推進。「化け物あつかい」されることやジョン、ビルらへの協力や「地球貫通 トンネル」(p.40、2齣)の掘削への同行と、新興勢力である日本への警戒、抑圧や日英同盟ならびに桂・タフト覚書や帝国主義化。ハム・エッグ一味の襲撃時に「とられるより まし」(p.106、1齣)と設計図を焼こうとしたビルを賊と間違えて丸太でなぐり、結果設計図を奪われてしまった(p.106~p.107)ことやそれをきっかけにしてのジョン、ビルらからの放逐や「ルンペンの こども」(p.152、3齣)としてハム・エッグ一味に加わることと、日本の米英との対立から決裂、第2次世界大戦の開始への経緯(既に開始していた白アリ=日本による第2次世界大戦への合流)。「ルンペンの こども」としての「時限爆弾」(p.120、2齣)設置作戦の失敗(p.120~p.122)やそれによる情報漏洩(p.123、1齣)や女王を崖から転落させることと、戦時の日本の様々なミスやそれによる損失やそれらの帰結としての敗戦。これらにおける記号・意味論的刻印は、丸太(p.106、2齣。日の丸と大日本帝国の「大」の類似としての太)、転落時に描かれる自動車のタイヤ(円形。p.138、3齣。およびp.139、1齣)になる(寓意表現 日本)。

また、丸太の件を除き、時限爆弾の設置失敗や女王墜死の計や化石ダイヤと設計図の確保などのジョン、ビル側に利する耳男=「ルンペンの こども」の行為は、表層レヴェルではスパイとしての働きとなっているが、寓意レヴェルでは戦時の日本の(それがなにに起因するにせよ)失敗あるいは不本意な経過や結果として意味づけられることになる。このとき「ルンペンの こども」=日本としての耳男はミミー=アメリカとしての耳男同様その寓意的意味の純粋性を保持し切れずに滲ませ、日本性にアメリカ性を混入していると見られる。それらの作用によって物語は単なる歴史の転写ではないユニークさを獲得し、かつまた検閲下の手塚にとっての「うまい方法」として機能した(あるいは機能することを期待されていた)と考えられる。

このような、1キャラクターに複数の寓意が刻印、内包されているケースを本論文では重合寓意と呼ぶ。分析により抽出されたこの概念に、耳男がジョンやビルと同じ「人間」であろうとすることにこだわり続けること(p.31、3齣。p.51、1齣。p.113、2齣。p.153、3齣)を加味して検討すれば、手塚が『地底国』に込めた風刺性はこのように解釈できる。日本もアメリカも同じだ。戦争に勝った負けたではない。イギリスに憧れ、イギリスとの関係の中で成長し、イギリスに認められたがっていて、アメリカはうまくやった。だがそのアメリカだってこれからどうなるか……

この読解の妥当性の詳細な判断はこの場では留保する。分析はまだ終わってはいない。耳男を軸とし全体の連続性を尊重する姿勢では捉え切れない寓意や刻印、風刺性やあるいはメッセージが、未だ残っている。これ以後はときに作品の時間性を跳躍し、より自由に、局地的な視点や俯瞰なども適宜使い分けて分析を進める。


ハム・エッグ一味は(おそらく新聞によって)「黒魔団(ブラック・デーモン・クラブ)」として世に知られることになる(p.114、1齣)。ここで「黒」を日と赤へと分解可能なものとし、さらに「魔」の中に「木」や「鬼」(「日」や「ム→無→0」を含む)を見出すこと、アジトの入り口が円形のマンホールに偽装してあること(p.115、2齣。p.123、3齣)などにより、これを日本の寓意と見做すことが可能だが、「黒」や「魔(デーモン)」(の下部が「鬼」)など人に仇なす邪悪なイメージが添えられていることは注目に値する(寓意表現 悪と見做される日本)。「魔」(demon)には悪霊の意もあるが、日本神道に属する(キリスト教的でない)存在に強く深く依拠し、あたかも憑依されるが如き様相を呈した日本の一面を、この点に表現しているものと考えられる。

この憑依というものは、それではないなにかが取り憑く、乗り移るという現象であるから、その機能や構造の上で、前述した図像や名称上の差異と同様、寓意への注意喚起の方策のひとつとしても役割を果たすだろう。(註45)だがそれと同時に、この点に手塚の風刺精神の発露を見ることもできよう。人間は誰しも成長すると共に、共同体、民族、国家、文化、制度、歴史、価値観などの生得的でないものに(強制であれ選択的であれ)出会い、関わり、あるいは属し、利用し、束縛され、会得することにもなるが、そうしたことの意味を、それによって生じた結果を、またそもそもそれらにどのような目的があるのかを、もっとよく考慮するべきではないのか。日本が欧米帝国主義の侵略に抗い続けるうちに自らが帝国主義に(望んで)憑依され(ざるを得なかっ)たこともまた……

敗戦表現について。既に指摘した通り、女王の死と耳男=「ルンペンの こども」=ミミーの死は、共に敗戦を表わすものと考えられるが、その原因となる状態が表現される際に乗り物の画面下方向への移動(p.139、1齣。p.149、1齣)が伴うことには特別留意すべきである。なぜなら前2者の死に先立つ物語冒頭、ジョンの父の死(p.13~p.14)の原因は、乗り物の画面下方向への移動によって描かれる旅客機の墜落事故(p.10)なのだから。車ごと崖から転落、地底火山を通過したロケット列車の地球の反対側への到着(描写が上下反転している)、旅客機の墜落。これらの共通点に加え、墜落したのが「世界一周 旅客機 ルビイ号」(p.11、上部)なのだから、「世界一周」から円をイメージし、「ルビイ」の和名である紅玉から赤い球状の形態を導き日の丸へ、また「紅」の一部に「工」という日を90°回転させ一部欠損した表記を見出し、「ルビイ」の「ビ」に日との音韻上の一致を捉え、これらを以てジョンの父の死を敗戦の寓意と解釈する根拠になろう(寓意表現 敗戦)。

では、ジョンの父の死を敗戦だとしよう。すると当然ジョンの父は日本の寓意となるが、そのとき、父の死を悲しみ、その願いを叶えようと誓うジョン(p.13~p.14)とはなんなのであろうか。ジャパンから「ャパ」を抜き出し、日の欠損である「ョ」を挿入することで完成する「ジョン」が彼の名であることを、このような視座から発見できる(寓意表現 日本)。そしてそのジョンが「安全で すばらしい のりものを 発明して おくれ」(p.13、2齣)という父の遺言に「ぼくはかならず りっぱなのりものを 発明して みせますよ!」(p.13、3齣)と涙ながらに応える場面(p.13)が冒頭部分の最後、タイトルロゴ(p.15)の直前に当たることを考慮すれば、ここにある寓意は、乗っていても人が死ぬことのない安全で立派な乗り物(=国家)とは、どのようにすれば作れるのか、という主題の提示なのではないか。そのような寓意的主題への取り組みがあったからこそ、それを知り、考えるためには、歴史を知らねばならず、それゆえに『地底国』という作品には、歴史の寓意が、国際情勢に登場する国家群が、様々な立場、観念、要因を入れ替えながら、描かれなければならなかったのではないか。

ともあれ、乗り物が国家の寓意であり、ジョンが日本の寓意であるとすれば、またさらなる分析の余地が生じることになる。ジョン=日本と耳男=アメリカの出会いと協力関係は戦後(占領下)の日米関係となり、そこで作られるロケット列車は戦後日本となろう(寓意表現 戦後日米関係)。あるいは「ルビイ号の 墜落」(p.11、上部)を敗戦ではなく倒幕と見做すか、もしくはタイトルロゴによって寓意レヴェルの時間軸が再設定されたと推定する場合、(註46)ジョン=日本による維新から敗戦までの経緯が描かれていると判断することになる。その場合においては、耳男、白アリ、黒魔団らをアメリカの寓意(でありながら同時に日本の寓意でもあるもの)と見做すことになるだろう。「白」人や「ア」メ「リ」カ、ブラック・デーモン・クラブという英語名のルビがアメリカ(あるいは連合国側というべきか)の寓意の刻印として打たれている。ジョンと耳男の出会いと地底行は戦前の日米の接近を示し、ジョンと地底国側との戦いは日米を逆転させ、終盤まで隠されていた化石ダイヤの効果(註47)は原爆となり(使用回数はどちらも2回)、ジョンとハム・エッグは石化した(p.127、1齣。p.134、1齣)ことによって共に敗戦を経験する。(註48)このことは白アリ側、ブラック・デーモン・クラブとしてアメリカの寓意ともなったハム・エッグに、再度日本の寓意としての役割を担わせ、日本としてのジョンとの類縁性を強めることになるだろう(寓意表現 敗戦までの日本)。(註49)そしてそこにある風刺性とは、日本やアメリカだけでなく、イギリスもまた、勢力拡大と利権獲得に執着しており、そのような国に憧れ、認められたがっている日本やアメリカの有様への複雑な眼差しなのかもしれない……

最後に、『地底国』における風刺性についてまとめておこう。日米共に抱くイギリスへの憧れと承認欲求は、イギリスを歪めて捉えた一面的な幻想によるものであり、他の側面である帝国主義に日本は抵抗していたのではなかったか。今回、アメリカは勝利したかもしれないが、これからはどうなるかしれない。なにしろ「魔」は日本だけでなく米英にも潜み、日本はただ先にやられたにすぎないのかもしれないのだから。そしてそのような風刺性が見られるのだとしたら、「魔」とは、耳男にとっての「人間」であろうとするこだわりであり、ハム・エッグにとっての「宝石がほしい」(p.90、1齣)という欲であり、白アリの女王にとっての「地上征服」や人間への蔑み(p.131、1齣。p.134、2齣)であり、そしてジョンにとっての「ぼくはかならず りっぱなのりものを 発明して みせますよ!」という誓いなのであろうか。「有名な設計家」(p.36、1齣)であったジョンの父は「おまえは 大きくなったら きっと 安全で すばらしい のりものを 発明して おくれ」(p.13、2齣)と息子に願いを託すその直前に、衰弱しながら呪いめいたようにも思える心情を吐露するのである。「ワシは あの飛行機が うらめしい」(p.13、2齣)と。こうした点に、寓意を使用した手塚の風刺性、作品と社会・歴史との緊張関係の構築を見出せはしないか。そして物語冒頭のジョンの父の死と遺言の意味がそのような寓意として見出せるのであれば、物語の結末である耳男の死と遺言にはどのような意味が見出せるだろうか。「ジョン ぼく 人間だねえ ………」(p.153、3齣)「きみは 人間よりも ずっとずっと えらかったよ 耳男クン きみのことは ぼく いつまでも 忘れないよ…」(p.154)。ここに、戦争を起こす国家へのうらみや国家の再構築の誓いとはまた異なる意図が、「人間」(=欧米帝国主義諸国と対等な独立国、帝国)を目指した国家への、「人間」(=相手と対等な存在)と認められたいと願い行動し続けた「化け物」への、その信念と悲哀への、同情の念が込められていないだろうか。父の死に泣きすがるジョン(p.14)にも似て……

おわりに 大塚英志についての断想的盛り合わせを添えて

さて、本論文の分析によって抽出された『地底国』の内容が「プレス=コード」に抵触するとすれば、「連合国に対する虚偽又は破壊的批判を行はざるべし」「連合国占領軍に対する破壊的批評及び軍隊の不信若は憤激を招く惧ある何事も為さざるべし」の2点(註50)であろうか。その点を指摘する以前に、このような分析が牽強付会や記号学的酔狂の類とパターン認識的酩酊に彩られた領域侵犯を伴う酒酔い運転にすぎないのか、それとも詐術的(トリッキー)で奇怪だが目的は果たす酔拳の如き意表を突く的確さをまとわりつかせる技巧なのかを検証すべきか。ともあれここで本論文の結論のひとつを述べる。以上の方法こそが手塚の検閲下における情報戦術、「うまく自分のいいたいことを」「殺されないで見せ」る「うまい方法」であるとし、これを前提としてすべての手塚マンガを再解釈し、その風刺性を検証するべきである。

そしてそのような視座に立つことで初めて見出せる先行研究があることをこれから短く述べ、もうひとつの結論を示して本論文を終えよう。俎上に載せるのは大塚英志である。

大塚の著書、『アトムの命題』(註51)の中で『地底国』の耳男は「傷つく心」(註52)と「死にゆく体」(註53)を与えられたキャラクターとして「明確な輪郭を結」(註54)んだものであるとされている。同書で大塚は『地底国』の詳細な分析を行ってはいないが、本論文のテーマに関連すると考えられる部分を以下に引用する。

日米講和の過程で『アトム大使』が描かれたことは偶然ではない。歴史の影はそこに色濃く落ちているのだ。(註55)

アトムが自身の力で「平和」を達成し、「大人」になるという『アトム大使』の結末は、その意味でもアメリカとの単独講和によらない、もう一つのこの国があったかもしれない「成長」の寓話として読むことができるのだ。/しかし、言うまでもなくそれは果たされなかった寓話である。(註56)

大塚が『アトム大使』を通じて作品に「歴史の影」を落とす手塚の肖像を描いていることに疑念を差し挟む隙間はない。また手塚マンガが風刺寓話として解読可能であると示唆したことも「『成長』の寓話」「果たされなかった寓話」に触れたことから明らかである。さらに大塚は、アトムが辿った紆余曲折に対し「そのアトムの混迷に満ちた運命は、この国の戦後を正確に象徴してさえいるだろう」(註57)とすら述べるのである。それだけではない。「アトムの命題」は星飛雄馬や力石徹、『ポーの一族』『いちご物語』『サイボーグ009』『仮面ライダー』の主人公たちなどに受け継がれ、ヴァリエーションを持ちながら「戦後まんが史を本質から規定しているようにぼくは思う」とまで言うのだ。(註58)「たった今、あなたたちの目の前にあるまんがもまた、一見、手塚と無関係に見えて『アトムの命題』を背負っているはずなのだから」。(註59)続いて大塚は以下のように同書を結びへと導いていく。

手塚の提唱した「まんが記号説」という言説は、まんがを、歴史や政治の文脈から切り離して解釈する手法として、まんが評論の方向の一つの主流を成すが、しかし、記号としてのまんがは、手塚を介して徹底して歴史や政治との軋轢の中にあったことをぼくは確認したい。その軋轢こそが手塚の中に戦後まんがの方法と主題を発生せしめたのである。/そのようなまんが史の上に、ぼくたちが日々目にするまんがも、世界で受容されるジャパニメーションも、あるいは「萌え」と戯れるおたく表現も存在する。/ぼくが提示したかったのは、そのような今日のサブカルチャーを歴史化し得る、一つの歴史観であったことは言うまでもない。(註60)

大塚の認識は本論文で提示した視座の遥か先を行き、手塚マンガの風刺性とそれに関する仮説を先取するどころかひと息に現代まで到達しているのである。

それを踏まえて、今本論文で検討すべき点は、仮説で提示した「それらを偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく(物語内外問わず)様々な手法によって歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起を企て」る、制作者としての相貌も持つ大塚の振る舞いであろうと考えられる。

手塚は生涯、まんが評論に反発したが、それは手塚が作中で行ってきた自身のまんがへの批評的自己言及にまんが評論が届かないことへのいらだちであったのではないか。(註61)

戦時下、占領下を「群衆の一人」として生きた手塚の内側でまんが表現と歴史がいかに出会い、そして戦後まんが史を産み落とすに至ったのかが本書に於けるぼくの関心事だ。それは手塚を神格化することでもなければ逆に手塚の神話剥がしをすることでもない。(註62)

前述の、記号としての漫画こそ歴史と政治に彩られているという大塚の見解と総合すれば、「アトムの命題」とは「傷つく心」と「死にゆく体」を与えられたキャラクターという内容に留まるものではない。また大塚自身が述べるような「『成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長し得るのか』という問いとしてひとまず集約できる」(註63)といった見解も決して十分ではない。「アトムの命題」とは(おそらく大塚が前提しているであろう)風刺寓話群が持つ共通命題であり、なぜ風刺寓話が作り続けられているのかという探求の果てにあるものであろう。

しかしながら、大塚が「アトムの命題」をこのように画竜点睛を欠く形(「ひとまず集約」の後に再定義しない)で宙吊りにしてしまったのは怠慢や技術不足にその因をなすものでは決してない。それは、キャリアを編集者から歩み始めた者にとっては当然の振る舞いにすぎないと言える。日本の成熟不可能性を託されたキャラクターは、いかにして日本の成熟をシミュレート可能か、(註64)などという直截的な物言いは手品の種明かしに等しい。(註65)作品が歴史の寓意であることへ鑑賞者の注意を喚起しようとする手法というのは、かように枢要に肉薄さえしながらしかし切り込むことなく周回軌道を巡るかのような様相を呈するのである。(註66)(註67)

その点を詳細に亘って論述するには編集者、まんが原作者、小説家など大塚の制作者としての足跡を追わねばならないが、既に紙幅は限界である。ここで本論文のもうひとつの結論を述べる。以上のような視座に基づき、漫画に関するあらゆる資料を調査、検討し、本論文と同様の視座に立つ先行研究を収集・整理するべきである。

これから、風刺性の検証と先行研究の調査を目的とし、筆者の探求の旅は続く。願わくばその旅路がネガティブな意味ではない「安全で すばらしい」「りっぱなのりもの」と共にあるように。そしてもし、その旅路が読者諸氏の同行に恵まれるものであるとしたら、筆者にとってそれは望外の喜びである。



(註1) 手塚治虫『マンガの心 発想とテクニック』光文社、1994。
(註2) 前掲書、p.237。
(註3) 米沢嘉博「さらに〝絶対〟へと近づいた『火の鳥 太陽編』」『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007、p.124。
(註4) 呉智英「ある戦後精神の偉業 手塚治虫の意味」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989、p.235。
(註5) 同前。
(註6) 藤川治水「鉄腕アトム論」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989、p.37。
(註7) 長谷川つとむ『手塚治虫氏に関する八つの誤解』柏書房、1990、p.91。
(註8) 開高健、「マンガの神様・手塚治虫」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989、p.70。
(註9) 手塚治虫、石子順『手塚治虫 漫画の奥義』講談社、1992。
(註10) 前掲書、p.148。
(註11) 同前。
(註12) 前掲書、p.149。
(註13) 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005、p.122~p.141。
(註14) 前述した水準の風刺性には触れている。清水勲、『マンガ漫画館・魅力シリーズ⑲ 手塚治虫マンガの魅力』清山社、1979、p.130、を参考。また、近年の著書では軽い紹介に止まっている。清水勲『四コマ漫画――北斎から「萌え」まで』岩波新書、2009、p.94、を参考。
(註15) 夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書、1997。
(註16) 前掲書、p.74。
(註17) 前掲書、p.107。
(註18) 前掲書、p.172。
(註19) 竹内オサムは、マンガを語る際に「レディメイドではなく、ハンドメイドの方法を!」(竹内オサム『本流!マンガ学――マンガ研究ハンドブック――』晃洋書房、2009、p.22)「批評にも自らオーダーした装置があっていいはずだ」(同前)と主張した。
(註20) アンガス・フレッチャー、高山宏ほか訳「文学史におけるアレゴリー」、A・フレッチャーほか『アレゴリー・シンボル・メタファー』平凡社、1987、p.10。
(註21) ポール・ド・マン、船倉正憲訳「パスカルの説得の寓意」、S・J・グリーンブラット編『寓意と表象・再現』法政大学出版局、1994、p.13。
(註22) ジョージ・オーウェル、川端康雄訳『動物農場――おとぎばなし』岩波文庫、2009。
(註23) 藤原彰ほか編『最新資料をもとに徹底検証する 昭和20年/1945年』小学館、1995、p.386。
(註24) 手塚治虫『手塚治虫漫画全集253 地底国の怪人』講談社、1982、p.16。
(註25) 以下、前掲書からの引用、参考の出典明示は煩雑さを避けるため、本文および註で引用した後カッコ書きで頁数・齣数を記す。
(註26) ロラン・バルト、花輪光訳「天使との格闘――『創世記』32章23~33節のテクスト分析」『物語の構造分析』みすず書房、1979、p.69。
(註27) ロラン・バルト、沢崎浩平訳『S/Z バルザック「サラジーヌ」の構造分析』みすず書房、1973、p.21、p.22、p.26、p.36、を参考。
(註28) フェルディナン・ド・ソシュール、影浦峡訳、田中久美子訳『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』東京大学出版会、2007、p.55~p.82。
(註29) 風刺寓話の実在が(それが表面上にすぎないとしても)疑問視される現状においては、出版年、社会的制約など「企て」の範疇に入らない事実や環境的条件を提示する必要もあるだろう。
(註30) 川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998、p.237。
(註31) 学者たちは、あるいはアメリカに植民地を形成していたフランス、スペインも合わせたものである可能性もある。
(註32) 前掲書、p.287~p.288、p.305~p.308。また「自由貿易帝国主義」論は1950年代に提起されたものであるから『地底国』制作時に手塚が知りえたはずもないが、第2次世界大戦に突入していく経過を現代日本から論じるにあたって使用した。
(註33) 齋藤眞『世界現代史32 アメリカ現代史』山川出版社、1976、p.68~p.69。
(註34) 川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998、p.358~p.359。
(註35) 遠山茂樹『日本近代史Ⅰ 岩波全書セレクション』岩波書店、2007、p.242。
(註36) 藤原彰『日本近代史Ⅲ 岩波全書セレクション』岩波書店、2007、p.170。
(註37) 前掲書、p.194。
(註38) 竹田恒泰『現代語 古事記』学研、2011、p.16。
(註39) 前掲書、p.110。
(註40) 宮地正人編『新版世界各国史1 日本史』山川出版社、2008、p.498。
(註41) 川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998、p.373。
(註42) 同前。
(註43) こうした情勢を手塚が念頭に入れていたのかどうかは、当時の報道と手塚に関する伝記的側面の双方を調査することによって明らかとなるだろう。
(註44) 宮地正人編『新版世界各国史1 日本史』山川出版社、2008、p.497。
(註45) あるいは「ウサギのおばけ」や「漫画のおばけ」(p.34、1齣)もここに分類する必要が認められるかもしれない。
(註46) 「ルビイ号の 墜落」の号外を売っている売り子(p.11、上部の売り子と同一人物かどうかは不明)が大学から脱走した耳男と出会うとき、まさにその号外を売り回っている最中であり(p.31、1~2齣)、ここからはじまる騒ぎの後ジョンは耳男と出会う(p.35、1齣)。タイトルロゴを挟んで「ルビイ号の 墜落」は敗戦と維新と、ふたつの寓意を持つと考えられる。タイトルロゴによる時間軸の再設定とは具体的には、時間の巻き戻しや2重化を引き起こすのであろう。キャラクターが重合寓意であることでプロットやシチュエーションにまで寓意の重合性がおよぶという状態はこれ以前の記述からも推定可能であるが、「ルビイ号の 墜落」にはそれらと一線を画すものがあるのではないか。
(註47) 物語の表層レヴェルでは、アンモン貝ほか数々の化石を描写している(p.47~p.48)こと、度々ある宝石の描写(p.89、1齣~2齣。p.91。p.98、1齣。p.115、3齣。p.120、1齣。p.123、4齣)、そしていざ使用するシーンの直前から女王がそれまで着用していなかった豪華なネックレスを下げている(p.125、3齣)ことが伏線となっている。
(註48) 石化したジョンをもとに戻したビルの「生き返って くれたか…」という台詞(p.140、3齣)は、石化と死はほぼ同一であり、ゆえに敗戦の寓意であることを示している。
(註49) その先に、「改心」するハム・エッグと地底火山の熱で倒れるジョンが加わることとなろう。
(註50) 藤原彰ほか編『最新資料をもとに徹底検証する 昭和20年/1945年』小学館、1995、p.386。
(註51) 大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』徳間書店、2003。
(註52) 前掲書、p.207。
(註53) 前掲書、p.208。
(註54) 同前。
(註55) 前掲書、p.247。
(註56) 前掲書、p.261。
(註57) 前掲書、p.263。
(註58) 前掲書、p.264~p.265。
(註59) 前掲書、p.265。
(註60) 前掲書、p.265~p.266。
(註61) 前掲書、p.257~p.258。
(註62) 前掲書、p.269~p.270。
(註63) 前掲書、p.258。
(註64) シミュレートは日本の未成熟あるいは幼態成熟(ネオテニー)という結果を提出するかもしれないが、大塚の意は成熟こそ描く/描こうとするべきである、というものではないだろうか。
(註65) この点は、既に大塚が蓮實重彦『小説から遠く離れて』を先行研究として見出し、「説話論的」な物語が「発見さるべく隠されてあるもの、つまりは見えないものに操作された物語だとひとまず結論することができる」という記述へのオマージュでありかつ注意喚起であるとも推測できる。
(註66) 手塚自身の漫画評論への反発(と大塚がそれを指摘する姿勢)も、大塚のこのような態度と基本的に同根にあるのではないか。
(註67)中野好夫が「諷刺文学の要件」とした「離れる態度(デタッチメント)」を引用したかもしれぬ村上春樹もあるいは大塚と同様の周回を描いていたのかもしれない(村上らの作品を『小説から遠く離れて』という表題で構造分析し評した蓮實も同様)。


主要参考文献

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005。
今井清一『日本近代史Ⅱ 岩波全書セレクション』岩波書店、2007。
大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』徳間書店、2003。
ジョージ・オーウェル、川端康雄訳『動物農場――おとぎばなし』岩波文庫、2009。
開高健「マンガの神様・手塚治虫」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989。
川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998。
呉智英「ある戦後精神の偉業 手塚治虫の意味」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989。
齋藤眞『世界現代史32 アメリカ現代史』山川出版社、1976。
清水勲『マンガ漫画館・魅力シリーズ⑲ 手塚治虫マンガの魅力』清山社、1979。
フェルディナン・ド・ソシュール、影浦峡訳、田中久美子訳『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』東京大学出版会、2007。
竹内オサム『本流!マンガ学――マンガ研究ハンドブック――』晃洋書房、2009。
竹田恒泰『現代語 古事記』学研、2011。
手塚治虫『手塚治虫漫画全集253 地底国の怪人』講談社、1982。
手塚治虫、石子順『手塚治虫 漫画の奥義』講談社、1992。
手塚治虫『マンガの心 発想とテクニック』光文社、1994。
遠山茂樹『日本近代史Ⅰ 岩波全書セレクション』岩波書店、2007。
ポール・ド・マン、船倉正憲訳「パスカルの説得の寓意」、S・J・グリーンブラット編『寓意と表象・再現』法政大学出版局、1994。
夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書、1997。
長谷川つとむ『手塚治虫氏に関する八つの誤解』柏書房、1990。
ロラン・バルト、花輪光訳「天使との格闘――『創世記』32章23~33節のテクスト分析」『物語の構造分析』みすず書房、1979。
ロラン・バルト、沢崎浩平訳『S/Z バルザック「サラジーヌ」の構造分析』みすず書房、1973。
藤川治水「鉄腕アトム論」、竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989。
藤原彰『日本近代史Ⅲ 岩波全書セレクション』岩波書店、2007。
藤原彰ほか編『最新資料をもとに徹底検証する 昭和20年/1945年』小学館、1995。
アンガス・フレッチャー、高山宏ほか訳「文学史におけるアレゴリー」、A・フレッチャーほか『アレゴリー・シンボル・メタファー』平凡社、1987。
宮地正人編『新版世界各国史1 日本史』山川出版社、2008。
米沢嘉博「さらに〝絶対〟へと近づいた『火の鳥 太陽編』」『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007。

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