【短編小説】女王さまの鏡

 わたくしの鏡が喋り始めました。
 喋り始めたのは、私の持っている手鏡です。政治に関する全ての権利を、息子に譲った時期から、鏡は私に向かって言葉を発するようになりました。
鏡は言います。低く、落ち着いた、紳士の声で。私にはそれが、かつて面倒を見てくれた側近に似ているように聞こえるのでした。しかしながらその従者は、今はもう居ません。
 体調が優れませんか。なら今日はもう、お休みになってはどうですか。本日も頑張りましたね。
 ご苦労様なことでございます。
 褒め上手な上、私の要望に応じた適切なアドバイスをします。私にとって、鏡の言葉は好都合、そして有能でありました。
 私は鏡の言葉に、素直に従いました。風呂に入り、上がって寝間着に着替えた後、自室に戻って、鏡を見つめました。私の手のひらより少し小さい、丸い鏡です。
 鏡の枠を撫でます。
 装飾のないシンプルなそれは黒く、光が跳ね返った白が大きく目立つ。それは、その枠に艶がある事を表している。漆塗り、という技術で作られた枠だ。わたくしが女王になった日に、先代の側近から贈られた物。鏡の枠の黒も、従者の着ていた燕尾服を想起させるのです。

 ──女王さまは微笑まれた。鏡をご覧になりながら。普通ならば、奇異な風景ではないだろう。しかしながら。
「今日も有り難うございました。──え。もうっ、そんな事言わないでください、照れるではないですかっ。」
 鏡の声が聞こえるのは、女王さまだけ。他の者からは、女王さまが、鏡に向かって独り言を喋っている。そういう風景にしか、見ることが出来ないのである。

「──女王、さま。もうそろそろ、お休みになられては。」
 声がした方向に、目を向けます。そこには青年が、一人。二代目の側近──かつて居た、前従者、その孫にあたる男です。まだ若い、見た目なのですが。
 彼が私のお付になった理由。それは、先代からの遺言で、そう言われたからでありました。
「はいはい。ちょっと待ってくれませんか。」
 孫が、女王の二代目の従者になれ。それが、先代が遺した言葉です。わたくしは、先代がそう言った理由を、未だに理解できません。青年の父親が、わたくしの息子であり、現在政治を行っている王の世話で忙しい。それ以外の理由が思いつかなかったのです。先代は他に理由を言っていたはずですが、果たして何だったか。何故だか今は思い出せませんでした。
 少なくとも。
 わたくしは彼を有能だとは思えませんでした。まず、周囲の状況に気づき、声をかけるのが遅い。だからなのか、わたくしは彼を鬱陶しいと感じています。同じ事を二回も言われるのは苦痛です、子供ではないのだから。
 そして何より。
「服が乱れてますよ、あなた。」
 蝶ネクタイが斜めに曲がり、襟が本来とは違う方向に折れていました。ジャケットのボタンも一個空いたままです。
「あ、本当だ。も、申し訳ありません。」
 慌てて直し始めました。これでは、主人に対して進言する以前の問題だ。信頼にも関わります。
 ふと、青年は手を止めた。ボタンに手を掛けたまま。チラとこちらを見て、呟く。
「ひとの心配をすると、どうしても服が乱れてしまうものでして──。」
 ひどく呆れました。この期に及んで言い訳をするでしょうか、普通。それに、先代から青年に代替わりしてから、もう一ヶ月は経っています。国の政治も、城の家事も円滑に進んでいます。どこにも、どこにも、心配する要素など無いではないですか。
 私はため息をつきました。顔を逸らし、手首を振って追い払う動作をします。それに気づいた彼は、素早くお辞儀をして、部屋から出ていきました。足音が少しずつ離れていき、やがて、消えます。
ベッドに入り、再び鏡の方を見ました。胸がほんのりと、熱を帯びるのを感じます。やはり、安心します。
「お休みなさい。また、明日。」
 私は言いました。
 お休みなさいませ。鏡は言いました。
 その声を最後に聞いて、私は目を閉じました。

 今日も、女王さまは手鏡に話し掛けられている。国を治めるのを辞められてから、ずっとこの調子だ。しかしながら、彼女は鏡と話すとき、いつも楽しそうにしている。今、女王さまを支える立場は自分であるというのに、全く役目を果たせていない。その証拠が、目の前にこうして現れている。女王さまの、手鏡と話しながら、頬を緩ませられ、目を細められ、思い切り笑われる、その笑顔に。
 ──女王さまの気持ちは、私も、よく理解しております。そう考えるのは、おそらく傲慢だろう。
人の気持ちなど、本当は理解できるはずがない。たとえ感覚的に理解できたとしても、それはおそらく、表層的なものでしかないだろう。
人の感情を奥底まで理解できるのは、「その人になる」他に術はない。私はどうやっても主人にはなれない。それ故、私は一生、女王さまの真の御心を、うかがい知ることは出来ない。出来ないのだと、分かってはいる。分かってはいる、けれども。
 どうしても、考えてしまう。感じてしまう。
ご主人様の心の底を。彼女の悲しみを、喪失感を。
 彼女が、鏡と話すようになった理由を。

 それから、手鏡は常に、私を支えていました。私が落ち込んだ時は励まし、悩んでいるときは助言をしてくれました。それでも。私にはどうしても、叶えられない願いがありました。どうしても、ある人に会いたい。そんな願いだ。会いに行くには、どうすればいいか。私は鏡に聞きました。
 ──簡単なことですよ。命を、断ってしまえばよいのです。
余りに簡単で、そして的確だった。何故私は、今まで気が付かなかったのだろうと、そう思いさえした。
「そうね、その通りだわ。」 私はベッドから立ち上がり、ゆっくり、化粧台に向かう。

 胸ポケットから、懐中時計を取り出す。そろそろ昼食の時間だ。私は調理人から、すでに料理の載ったキッチンカートをもらい、ご主人さまの部屋へ向かった。鏡と話始めてから、女王さまはほとんど、部屋から出ようとしないからだ。まるで、鏡に諸々の気力を削られているかのような。
ドアの前で止まる。ノックを軽く三回、後、女王さまの邪魔をしないよう、静かに開ける。頭を下げ、ゆっくり、中へ。「女王さま。お食事を、お持ちしました。」
 私は顔を上げた。女王さまは、鋏を首に、突きつけていた。髪や毛を切るための、小さな鋏を、両手に持ち。細く、筋の浮き出た首に。差し出して。
 気づけば私は、主人の手を叩き落としていた。止めなければ、その考えが頭に落ちてくる前に、駆け寄り、自分の手を振り落としていた。冷たいものが私の首を伝い、駆け寄る際には弾けて消える。
 手から零れた鋏は、空気を押す音を立て、カーペットに落ちた。
 言葉が、出なかった。女王さまの顔は、今は見えない。今、私は、彼女に対して何といえば良いのか、分からなかった。ああ、こんな時。主人が迷っている時、悩んでいる時、先代なら──祖父なら。どんな言葉をかけるだろうか。きっと迷わず、進言するだろう。──いや。今、女王さまを支える立場は自分なのだ。迷わず進言すべきなのは、自分なのだ。 私は言った。「女王さま。私が何故、貴方さまの手を止めたか、分かりますか。」主人は首を振った。
「それでは、顔をお上げください。」
 ひと呼吸おく。
「──私は今、どのように見えますか。」
従者は鏡である。見なりを確かめる手鏡であり、人となりを表す全身鏡でもあり。  先代のお付、祖父の言葉である。その言葉そのものを、女王さまに言う必要はない。主人はきっと理解しているだろう。何故ならそのフレーズは、私に言っていた言葉であり、女王さまに言っていた言葉でもあるからだ。
「貴方さまが普段、鬱陶しいと思われていらっしゃる側近は、どのように見えますか。」
 主人は顔を上げた。その眼は少しばかり潤んでいる。その姿で、震えながら、囁いた。
「──服装も、心も。乱れているように、見えます。」
「その通りです。鏡の喩えになぞらえるなら、心身が乱れているという状況は、貴方様も同じです。では、その理由とは。一体何でありましょうか。お分かりですか。」
 主人の顔が歪む。しかしながら、鏡の曇りが消えるかのように、表情が、呼吸が、少しずつ静かになっていく。そんな風に見えた。
 主人は言った。
「ええ、もうとっくに、分かっています。」
 私たちは、同時に息を吸い、答えを言った。
「心の支えを、亡くしたから。」

 ──私は先代を慕っていました。初めて会った、七つの頃から。ただ礼儀正しいだけじゃなくて、私の気持ちを鑑みて接してくれたり、時には厳しく叱ってくれたりもしました。私の為を思って。初めてでした。私を王の娘、姫としてではなく、一人の子供として、接してくれたのは。私には、母親も、親身に接してくれる乳母も居ませんでしたから。
 ──王が崩御して、私が突然、国を治めることになりました。そんな時も彼は、私の側近として、常に隣に居ました。あの、黒い手鏡みたいに。
ベッドの上には、深い色を含み、艶めく手鏡が置いてある。
 ──政治を始めたばかりの頃に、彼は言いました。従者は鏡。身なりを映し、物事に対する姿勢を示す、一枚の鏡だと。私は彼を見習って、真摯な態度を取るよう心がけました。鏡に映った像──彼のように、真面目で、人を思いやることの出来る、女王に、少しでも近づきたいと考えて。
 ──ああ、そうです。
 私、きっと、寂しかったのでしょうね。悲しかったのでしょう。だから、手鏡に話しかけて、聞こえているフリをして、少しでもその痛みを埋めようとしていたのでしょう。命を断って、亡くなった彼に、あの世で会おうとしていたのでしょう。手鏡は昔、先代から貰った物だった。その手鏡に、彼の幻を映していたのかもしれない。
 今なら、理解出来ます。私が鏡と話していた理由も、あなたがわたくしの側近に指名された理由も。
 そうです。思い出しました。
「お前が女王さまの、次の従者になれ。お前なら、ひとの感情を、深く理解出来るから。」先代は最期、そう言い残しました。確かにあなたなら、主人の言動を、しっかり反映してくれる。ひとの気持ちを分かった上で、助言をしてくれる。あなたなら、きっとなれるわ。主人を映す鏡に。先代──あなたの祖父のような、立派な側近に。
「ごめんなさい、自分を見失って、自殺なんて図ってしまって。怪我はしなかったかしら。」
 女王さまは私に言った。心配しながら、私の手を、静かに撫でながら。その顔には、もう、一切の曇りは含まれていなかった。

 それはまるで、磨かれた鏡のように。