批評というのはかけられるメガネの種類を増やす楽しい作業

結構前になるが、こんな文章を読んだ。

クイア批評(クイア・リーディング)についてはこの方が文章の中で丁寧に説明してくださっているので割愛する。ちなみに世界で一番有名なクイア批評の対象は「アナと雪の女王」かと思われる。知らんけど。

Official髭男dismというかなりメジャーフィールドなバンドと「クイア批評」という言葉が結びついたのは面白くもあり、また少し危険かな、とも思った。

クイア批評に限らないが、批評や解説というのは人の数だけある「見方」のうちの一つでしかない。それからクイア批評に限って言えば、誤解されがちなこととして批評の結論と作者のセクシュアリティーの結びつきがある。

まず後者の「批評の結論と作者のセクシュアリティー」のことについて。
例えば先の文章で使われていた夏目漱石を例にとると、「夏目漱石の『こころ』はクイアリーディングできるから夏目漱石はゲイである。Q.E.D.」みたいなことだ。それは全く関係ない。その結論は性急すぎる。なんならそもそも批評というのは作者の意図など知ったこっちゃないので、本当にそれを意識して書かれたかどうかなどわかるはずがない。クイアリーディングは、作者のセクシュアリティーを限定するもしくは決定するためのものではないということは大切な注意点の一つだと思う。

そもそも「それを書いた人の性別が何か」なんて知る必要があるのかという話だ。知らんでいいし、他人である我々読者が決めるなんて失礼極まりない。

そして前者の「見方の一つでしかない」という話。
国語の授業の「作者の気持ちを答えなさい」みたいな問題が嫌いだ、という話はきっとどこでも経験していると思う。しかし、作者の気持ちを答えようとするということはとても大切なことだと思っているから、この作業は絶対に必要なのだ。

人は、自分以外の人間の気持ちをわかることができない。
せいぜいわかろうとすることしかできない。それでいいのだ。わかろうとすることが大事なのだ。
言葉というのはそのためにあるんじゃないかと思っている。我々人類が唯一持つことができた、他人をわかろうとするためのツール。

私はそれを「メガネをかける」と表現する。
他人の思考が書かれた文章や言葉を見ると、その人のメガネをかけている気分になる。その人の思考がまるまるわかるわけではないが、その人が世界をどんな風に見ているかを、自分の思考を通して見ることができるのだ。

どうやら世の中の多くの人にとって恋愛とは、異性にするものらしい。
という前提に立つと、クイア批評は多くの人にとって「変わった色のメガネ」くらいのものになるのだろうか。

それは決して、これからその作品をそういう目でみなさい、聞きなさい、という意味ではない。
これをこういう風に捉える人がいるんだよ、面白いでしょ?
これをこういう風に読んだあなたにも、この世界に居場所があるよ。
ただそれだけのもの。
自分に溶けていかなかったら「ふーんそうなんだ、俺はわからんけど」って思って、ポイってしちゃってもいい。

そして、変わった色のメガネで見る世界は、結構面白い。
「面白いじゃん」って思うことをかさねて生きていきたいよね。


ちなみに、ヘテロ的解釈をしたものないかな、と思ったら案の定出てきたし、

私はめちゃめちゃにヘテロセクシュアルなので初めてこの歌を聴いた時はくすぐったいくらいどストレートなラブソングだと思った。ていうか今でも思ってる。それだけ歌詞に住める人の数を増やした曲だとするとすごい。

いただいたサポートでココアを飲みながら、また新しい文章を書きたいと思います。