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オリジナル掌編小説『君とすれちがう』

これはいよいよ夏が来たことを認めなければならないかも。
今年もそう思う時期がやってきた。ぼくの腕には少し大きく感じる、デジタルタイプの腕時計で日付を確認すると、6月を三分の一ほど過ぎたころだった。

夏が嫌いだ。とくに6月が嫌いだ。
だんだんと暑くなって、少し動いただけでも疲れてしまう。雨が増えて、毎日だるいし、髪の毛はぐしゃぐしゃになる。それに、街にはクチナシの香りがあふれる。まるで空気の中をただよって、弱りきった心をあざ笑うかのように毎日クチナシの香りとすれ違う。君はきっと、もう遠くにいるのだろうに。

たばこを吸う人と付き合わないほうがいい、とは何度か言われたことがある。特に香りに敏感なあなたは、恋人が吸っていたたばこの香りにどこまでもついていってしまいそう、と別れ際に言ってきたのはいつか一夜を共にした人だった。それが男か女かも憶えていないが、たしかに、紫煙と香りにどこまでもついていってしまいそうだなと思った。それからというもの、消臭スプレーのパッケージに書いてある「たばこのニオイ」という言葉に傷つくようになった。汚いものじゃない。ぼくにとって、誰かを思い出すための、大切にしたいこの世の中の要素だ。

そんなぼくが一番付き合ってはいけない相手は、喫煙者ではなく花屋だった。花屋で仕事をしていた彼は、街じゅうに思い出をばらまいてぼくの元から去っていった。ぼくだけが思い出を拾い集めている。

はじめは楽しかった。花になんて興味のなかったぼくにとって、デートをするたびに道に咲く花の名前を教えてくれる彼がとても魅力的に、かっこよく映った。名前のない植物、意味を持たない道端の「花」にはひとつひとつ名前がついて、ひとつひとつに意味づけがなされていった。世界の色が少しずつかわっていくのを感じた。そして季節ごとにうつろいゆく花のひとつひとつが思い出となった。花を指さすときの爪のツヤまで、花を見るたびに思い出す。
付き合ってから初めて迎えた彼の誕生日では、一本のバラをプレゼントした。ドキドキしながら買った真っ赤な一本のバラを見て、彼は「ぼくにとっても、一人しかないからね」ときわめて正しい言葉を返してくれた。ぼくはそれが嬉しくて、人目もはばからずレストランで泣いてしまった。その時ぼくのことを優しい目で見ていた彼の、下がった眉毛の角度が忘れられない。

付き合って1年たったあたりで、ぼくの嫌いな梅雨を迎えた。彼より先にベッドを抜け出して、軽いワックスで一生懸命髪の毛を整えていたら、せっかく整えた髪をわしゃわしゃと崩してきた。
「なにをするんだ」
「そのままでいいよ。そのままで、アジサイでも見にいこう」
「やだ、ぼくこの髪の毛好きじゃないんだ」
「ぼくは好きだけどね?ワックスのニオイで君の香りがかき消されてしまうのも、とても好きになれないから」
しぶしぶ手を洗い、彼に従って出かけることになった。

有名なアジサイの名所で、満開の時期もあいまって土曜だったその日はとても混雑していた。アジサイがたくさん咲く道沿いを歩きながら、彼は何枚も写真を撮った。つられてぼくも写真を撮ったが、彼のように満足に撮れない。彼の横顔をちらりと見やると、まるでアジサイと会話しているかのようだった。こちらを向いて、もう少し目をよく見て、どうして目を合わせてくれないの、そうだよね、言いたいことは全部わかるんだから。今夜自分が言われるのだろうセリフが、脳に直接語り掛けてくるような目つきでアジサイを見つめていた。

人ごみをかき分けてアジサイが咲いた寺を抜けて、すこし人通りが多い場所に出た。そのとき、彼はくっと立ち止まって大きく息を吸った。
「クチナシの香りだ」
そしてもう一度息を吸って、ぼくに語りかける。
「これがクチナシの香り。わかる?とても甘い、視界が溶けてしまいそうな香り」
ぼくも息を吸ってみる。
「わからない。人間のニオイだけがする」
「知らないだけだ。どこに咲いているか、探してみよう」

ぼくはたしかにどちらかというと嗅覚に優れているが、人間というのは不思議なもので、知らないニオイや香りは認識しづらい。そのときのぼくにとって、クチナシは「知らない香りもしくはニオイ」だった。人がたくさんいる場所で、知らない香りやニオイをかぎあてるのは困難だった。

花を探しているときの彼はとても速く歩いた。迷子になってしまいそうで、手をつかもうか迷っている間に、彼はクチナシという花を見つけた。
「あったよ、これだ」
いつもの手つきで指さした先には、白い花がいくつが咲いていた。葉は厚く、つやつやとした低木で、たしかに視界がとろけてしまいそうな香りがしていた。
「これがクチナシ?」
「そう、これで覚えたね」
「一度嗅いだら忘れられない香りだ」
「そう。そうだろうよ。いい香りだね」
「もうわかる」
「よかった。じゃあ、夕食にしようか」
昼が長くなって気づかなかったが、時刻はもう19時近かった。

その夜、ベッドの上の彼はいつもと違う香りがした。まだ鼻の中にクチナシの香りが残っているようで、なんだかとろとろとした時間が流れた。シーツの中で彼に抱きつきながら、大きく息を吸ったら、時間はシーツの中から溶け出して、どろりと夜に混ざり合っていく。そのままぼくも液体になって、同じようにどろどろになった彼とまざりあってひとつの存在になった夢を見た。朝起きたらシャワーを浴びた後の彼がベッドに腰かけていて、クチナシの香りは消え去っていた。
「おはよう」
その言葉には、前日見たクチナシから奪ってきた香りの最後のひとかけらが混ざっていた。

それから1年くらいはなにごともなく穏やかに二人で過ごしていた。つもりだった。いつもそうだ。別れを告げる時も告げられるときも、毎日少しずつできていった小さな歪みが大きくなりすぎたことに気づく。そんなつもりは全くなかったのに、お互いに対する淀んだ気持ちを育て上げてしまっている。もう、終わりの時なのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたら、やはり彼の方から別れを切り出してきた。それは突然で、はたから見たら何の脈絡もなく告げられた。

「やっぱり、もう終わりにした方がいいと思う」
この「やっぱり」は、きっといままでの2年間の続きにあるのだ。彼にとっても、そしてぼくにとっても突然なことではない。突拍子ないこともないし、脈絡がないわけじゃない。ぼくらという長い文章の最後の一段落の始まりだった。
おたがい、何かに焦っていた。何とははっきり言わない何かに焦っていた。はっきりと言葉にしなくてもわかる焦りが、ぼくらのひずみと淀みを大きくした。ただそれだけのことだった。
「わかったよ。ぼくが家を出る。一度実家に帰ろうかと思う」
「それに関しては焦らなくていいよ。別にケンカしたわけじゃないから。好きな時に出ていってくれ」

そういわれても、別れを告げられて納得した身としては、じゃあそれでは、と長居する気になれず、2日ほどで早々に家を出ていった。たった二日前に購入した段ボールは、6月の湿気で少しだけくたっとしていた。なんとなく湿った箱を持ち上げて、二人の家の扉だったものをくぐるとさらに湿気が襲ってきた。そしてその空気の中には、クチナシの香りが混ざっていた。

彼は家にいなかったのに、すれちがった気がした。
その瞬間、ぼくの思い出の中で彼はクチナシそのものになった。
花から出す香りでこの世の中を揺らし、どろどろに溶かす存在。雨と湿気と低気圧にまざって、ぼくを眠らせにくる存在。こいつが花なんか好きだから。花なんかの話をするから。花と話すみたいに、ぼくと話すから。ぼくは君のことを忘れることはないと思う。君が風に乗って遠く遠くに行ってしまっても、ぼくはここで、毎年君とすれちがう。

(了)



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