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「生きているだけで価値がある」を私は信じられない|心に浮かびゆくよしなしごと

"生きづらさを克服する"

そんな文脈で
「人は生きているだけで価値がある」
「だからありのままのあなたでいいんだ」
そう、よく語られる。

けれど、私はそれを信じることはできないし、
だからこそ私はいまだに生きづらさを抱えながら生きている。

「生は消費だ」という価値観

「人は生きているだけで価値がある」という言葉を
私が信じられない根底には、この価値観があるのだと思う。

"生きる"ということには"消費する"ということが伴う。

生きるために食事は不可欠で、
現代社会では住居や衣服などもほとんど必須に近い。
病気になって治療を受ける・薬を飲むということも一種の消費だろう。

今の社会ではそれらは「お金」で全て換算できて、
「生きることはお金がかかる」という至極わかりやすい言葉になる。

それは言い換えれば多分
「生きるのに必要なお金がなければ生きていけない」
という言葉になるわけなのだけれど、
それは、単にお金がかかるというだけではなくて。

例えば食事をするということは、動物か、植物か。
何者かの命をいただくということだし、
あるいは、誰かが食べられたはずの分をいただくということでもあって。

生きるということは、有限の資源を消費するということ。

だから
「私はそこまでして生きる価値があるのか」
という問いが自然とつきまとって、

それは

生きるに値するだけの価値がないと生きていてはいけない

という言葉に落ち着いた。

価値とは、誰かに"認められる"もの

「お金がかかるというだけのことではない」と言って
自分の中で一番しっくりきた表現が

生きるに値するだけの価値がないと生きていてはいけない

だったわけなのだけれど。

"価値"を考えるのに"お金"に紐づけて考える方が考えやすいので、
ここからは"お金"ベースで書いていく。

生きるに値するだけの価値を生産する

一番わかりやすいのは、自分で働いて生活費を稼ぐということ。

働いて給与をもらうのであれば、
それは会社が求める価値を提供する代わりにお金を受け取るということで、
つまり、「会社で価値を認められる」必要がある。

会社で働く以外の方法で、お金を稼ぐのであれば、
「お金を支払ってくれる何者かに価値を認められる」必要がある。

例えばフリーランスとして働くのであれば、
提供する価値を取引先に認められる必要があるし、

ブログやYoutubeの広告収入で生計を立てるなら
「多くの人が見にくる(=広告を掲載するだけの価値がある)コンテンツ」だと価値を認められる必要がある。

投資家は、「会社の経営のために必要なお金を貸している」という価値が認められているのだろう。

そして、自分で生活費を稼がないのであれば、、、
生活費を出してくれる誰かに「生きていてほしい」と望まれる必要がある。

その"誰か"は、
子供なら親に、専業主婦/主夫なら配偶者になるのだろうけれど
言い換えれば彼らに「価値を認められる」必要があると言えるのだろう。

そして、自分で働いて価値を生み出すことも、
誰かに「生きていてほしい」と望まれることもなければ、
それは自分が消費するだけの価値を生産できていないことを意味する。

そしてそれは、

生きるに値するだけの価値がないと生きていてはいけない

という価値観に則れば、
単に「生きることができない」にとどまらず
「生きていてはいけない」に至るから。

生きるために消費する価値と同等かそれ以上の価値を
誰かに認めてもらえない限り、生きていてはいけない、ということになる。

「生産性のない人間は死ねというのか」

そんな言葉が、一時期有名になった。

"生産性"という言葉はあまりに曖昧なので、
ここまで使ってきた"価値"という言葉に置き換えさせてもらうと、
「価値が生産できない人間は死ねというのか?」ということになる。

この訴えは、
たとえ自分が価値を産めていなかったとしても、生きていたいんだ。
そういう当事者的な望みとして、心の叫びとして、
感情的にはまぁ理解できる。

今は価値が生産できているという人だって、
いつ「生産できない側」に回ることになるともわからないのだから、
批判ばかりしていたら自分に返ってくる。

そんな理屈も理解できる。

その人自身が生きるために消費する価値以上に
その人の肉親や友人などが生きていることを望んでいるうちは、
生活費は負担されて生かされるし、生きる価値もあるのだと思う。

けれど、それほどの価値を誰にも認められなくなったとき…

実際問題生活するのが困難であるということだけではなく、
生きていてはいけないんじゃないだろうか。
というのが、私の偽らざる本音だ。

私の生存戦略

生は消費だ、という価値観の中で、生きていてもいいのは、
生きるために消費する価値が他者に認められる価値よりも大きい時である。

これに則るのであれば、生存戦略は
1、生きるために消費する価値を小さくする
2、他者に認められる価値を大きくする
になる。

1、のために私はびっくりするほど物欲がなくて、
2、のために周りの顔色を伺って、潰れそうになるくらい頑張るのだろう。

そして、自分が生かされている以上、3人は子供が欲しいと思うのも、
"ヒト"という生物として「自分が生きている価値」を
高めようとしてのことなのだろうと思う。

最後に

生は消費だ
生きるに値するだけの価値を生産しないと生きていてはいけない

この価値観を誰かに押し付けたいわけではない。
むしろ、この価値観を誰かに論破して欲しい。

きっと、この価値観を克服することができれば、
私の人生はもっと生きやすいものになるのかもしれないのだから。


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