かつてのわたしは「好き」が全てだと思っていた

要約:好きなものとか趣味とかなくても大丈夫と思う


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 もう5~6年ほど前、わたしは合唱をしていて、たまに絵を描いて、休みの日は舞台を見に行き、贔屓の俳優さんを応援することがとても楽しかったのを覚えています。

 合唱だったり絵という生産活動だったり舞台だったり俳優さんだったりと好きなものに囲まれていたし、好きなものの為に生きていた。

 好きなものの為に生きていたとは、好きなものが生きがいであるということ、また自分自身のアイデンティティというものを好きなものに依存していたということです。

 わたしとはどういう人間か?と問いかけるなら、わたしは合唱をしていて舞台を見に行くことが好きで贔屓の俳優さんを日々応援しているような人間です、と迷いなく答えられた。


 わたしはそんな人生に疑問を持たなかったし、充実していたし、自分自身がどんな人間であるかということにも悩まずにいられた。
 あの時は自分自身のことが好きでいられた。

 何にも好きなものがない人って何のために生きているのかしら。
 そんな残酷な疑問を抱けるくらい自分のことが安定して好きでいられた時でしたね。懐かしい。



 かつてはそんなわたしでしたが。

 今のわたしはどんな感じかというと、好きなものとか趣味とかがなんとなくなくなっていってしまって、何かを表現できるような生産的な活動をする気力もなくて、こころ突き動かされるものもなくて、やりたいことも特になく、ほんの少し、時間を浪費しているように感じているんです。


 なにがきっかけですか?なんでそうなってしまったんですか?と聞かれたら分からない。

 一番大好きなことをしている時や何かに熱中している時って、ちょっと正気じゃない、頭のどこかが狂ってる部分がある気がするんだけど、だんだん正気になってしまった感じがある。



 まぁともかく、好きとかこれがしたいとかそういう感情が少しずつなくなっていってしまったんです。


 それで一番困っているのは、自分がどんな人間かが分からなくなってしまったこと。

 わたしという人間は、「わたしの好きなもの」で構成されていると思っていた。
 かつては好きなものが沢山あって、好きなものに全力投球できていたから良かった。

 でも今は好きなものがない。

 じゃあ、わたしって誰だ?

 いまここにいるこの人間って誰だ?
 なんでこの人間は生きているんだ?


 「好きなことがない人って何のために生きてるの?」というかつての自分の言葉に後ろから刺されているような心地がする。

 でも、生きるしかないのです。


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 かつてのわたしは、わたしという人間の正体は「わたしの好きなもの」が全てだと思っていたし、好きなものがない人は何のために生きているのだろうと本気で思ってた。


 でも、好きなものとかやりたい事とかが小さくなっている今だからわかるのは、わたしという存在は好きなものだけでできているわけではない、ということ。

 なぜって?だって好きなものがない今のわたしが普通にわたしとして生きているからです。


 好きなものがない自分なんて存在できない、生きてちゃいけないと思ってた。
 なにかに夢中になっている自分じゃないと生を全うしているとは言えないと思ってた。

 でもそうじゃなかったみたいです。


 好きなものを失ったわたしは、「何かを好きでいなければいけない呪い」からも解放されたみたいです。


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 好きなものとかやりたいこととか生産活動への気力を失ったわたしは何をしているかというと、

 とりあえずやりたいことがないのでやるべきことをしています。
 毎日仕事には行っています。
 せっかくだしやるべきこととして勉強もしたいなぁと思っているのですが、なかなか仕事で疲れてしまってできていません。難しい。

 あとお金を貯めています。
 舞台のチケット代って高いんです。その分の、いわゆる何かに貢ぐためのお金はつみたてNISAもしくはiDeCoもしくは普通預金の方へ積み上げられています。

 つまり、普通に生活しています。
 よく考えたらそれ以上何を望むんだろうか。


 あと前と違って自分のアイデンティティが不安定な状態だから、不安定だからこそ考えることが増えた。

 わたしとはどんな人間だろうかとか、幸せってなんだろうとか、こんな生き方は良いと言えるのだろうかとか。あとあの日感じた嫉妬は何がきっかけなんだろうとか、どうしてあの一言にあんなに傷ついたんだろうとか。
 こうやって日々生きることを考えることが本当の意味での哲学なんじゃないか?と思ったりします。

 前と違ってなにかに夢中で狂っているような状態ではないから、頭がオーバーヒートしていない冷静な状態で、お散歩とかしてみたり、流れる川の綺麗さにはっとしたりすることとかができる。


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 ここまで書いていて思ったのは、自分という人間が好きなものだけで構成されているなんて、好きなものや夢中になれるものがないなら生きがいがないなんて、そんな単純なことがあるわけないということ。

 人間はもっと複雑で多様なものだと思うから。
 自分という人間の存在が何かたった1つのものだけに依存しているなんてことはないから。

 何かを手放した時に、離れたその隙間に涼しい風が吹き込んで気持ちいいかもしれないし、新たなパズルのピースがそこにカチッとはまるかもしれない。

 だから好きなものがなくても、何かを失ったと思っても、それで大丈夫だということ。


 また好きなものに出会えるかもしれないし、何かを手放して軽くなった体でどこへでも行けるかもしれない。

 いまは好きなものとかやりたいことが見つからないけれど、それはいつかまた新たに素敵なものに出会うための移行期間、準備期間なのかもしれないし。

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 好きなものややりたいことがないという状態のわたしだけど、そんなわたしは今文章を書いている。


 やらずにいられないことをやろう、と思っていたのだけれど、「やらずにいられない」じゃちょっとハードルが高いから、「ちょっと面倒だけどやってみてもいいかな」くらいのことを試しにやってみて、好きなこととかこれから続けたいことに自分から出会いに行くのもいいかなと思って。

 いつかまた出会えるかもしれない「好き」を、待っているだけじゃなく、自分から迎えに行くのもいいのかなと思って。


 それで、生産的とも創意工夫とも表現活動ともいえないかもしれない日々の日記だけれど、それでも何かを書こうと思ったんです。

 今わたしがしていることって何だろうと思った時、わたしは四六時中考えているなと思ったから。


 だからせめて、日々考えているとことか、へろへろの遠回りの経てわたしなりにどうにか辿り着いた思考の果てとか、そういったものを拙くても形にしようと思って、いまわたしは文章を書いています。

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