見出し画像

人生の紐解き屋とは

皆さん、初めまして!
人生の紐解き屋 関口陽介です

人生の紐解き屋って何者だ?って思って
このページに飛んできて頂きありがとうございます(^^)

この記事では
人生の紐解き屋 関口陽介
これまでの道のりを紹介していきたいと思います

この記事を読んだら
関口陽介ってこんな人なんだとわかっていただけると思います
それではよろしくお願いいたします(^^)/


○なぜ周りは声をかけないのか

北海道札幌市にて産まれます
父は公務員 母は専業主婦という
社会的にめちゃくちゃオーソドックスな家庭で育ちます

ただ僕が3歳にも満たない時に父はうつ病を患いました
まだうつ病という言葉もない時期です

僕が物心つく頃の父の記憶は
寝ているかぼーっとしているか
仕事にいっているか
の記憶しかなく

父とコミュニケーションを取った記憶も
わずかしかありません

母はいわゆる肝っ玉母ちゃん
2人の子育てをしながらうつ病の旦那を支えていました
ただそんな母も僕が小学校くらいの時に
更年期障害をうつ病を併発しました

両親共に愛情深く
子供に心配かけまいと振舞っていたのを
子供ながらに感じていました

僕の幼少期は家では生意気、わがまま、内弁慶
末っ子ムーブをかましておりましたが
(4つ上の兄が1人います)

外では人見知りで真面目な性格でした

幼稚園はシュタイナー教育で
陶芸、機織り、染め物など
あらゆる経験をさせて貰う中

幼稚園で
僕が1つ鮮明に覚えている事があります

教室のすみっこで
体育座りしている女の子
がいました

僕はその女の子を見て
どうしたんだろう?なんかあったのかな?
どうして周りの人は声を掛けないのだろう?
と感じたのです

僕はその女の子に話しかけました
どうしたの?みたいに話しかけた気がします
その女の子の反応も覚えてませんが

僕の中で困っている人が居るのに
なぜ周りは声をかけないのか

ここが子供ながらに
非常に疑問だったのです

なんか困ってそうなら声をかける
それは当たり前のことではないか

親にそう躾された覚えはないのですが
なぜか当時からその様な価値観がありました

○デブでいじめられる

元々食べ物が大好きな僕は
小学校にあがると僕は徐々に太り始めます

そして根っからの真面目君
小学校1~2年の頃はクラスメイトから
まじめくんと言われていました

まじめで何が悪いのか
チャイムがなったら座るもんだろと思っても


引っ込み思案の人見知りムーブかましまくりの
当時の僕は言い返すこともできず
赤面するばかりでした

小学校3年生の時
兄の友達が入っていたのをきっかけに
ミニバスにはいりました

太っているから走り込みがしんどい
こけたら笑われる、恥ずかしい

身体がもりもりしてるから
【もりっち】というあだ名をつけられました

嬉しいような悲しいような・・・
仲間に入れて貰えた気もするし
けなされた気もする

そんな複雑な気持ちでした

ミニバスを初めて間もなく
顧問の先生が転勤し
新しい顧問の先生が来ました

その先生が恐ろしく厳しい先生でした
前の顧問の先生は楽しくやろう的な
感じでしたが新しい先生はまさに鬼教官そのもの

今だったら即問題教師として教育委員会に
突き出されそうな人でした

その先生になってから
ミニバスにも行きたくなくなりました
しかも【もりっち】いじりが激しくなり
小学校4年生の時に辞める決意をしました

これをいじめというのかわかりませんが
太っていることをいじられたり
変なあだ名をつけられて非常に傷ついたわけです

いじった方は悪意はなくても
いじられた側がどう思うかはいじられた側しかわかりません

僕は先生も怖いしいじめられるしで
辞める決意をしたんですが
なぜか鬼教官に止められたのです

そしてなぜだか続けてしまいます
いじめてきた人から謝って貰った事もありますが
なんか鬼教官が期待してくれてる様だったので

それが嬉しかったのか続けることにしました

○人の心に強烈な興味を持つ


その頃家庭環境は
入退院を繰り返す父と
日に日に辛そうにする母という状態でした

年末になると
激しい夫婦喧嘩もする様にもなり
取っ組み合いの喧嘩はまさにトラウマ

父の手形が母の腕に付き
口の中に血が滲んだ母の姿
あの映像は忘れません

そんな喧嘩が数回あったように感じます
兄も中学生になり止めようとしても
なかなか止められません

当時の僕は
父=悪というレッテルを貼ってました

恐らく父と話したことがなく
母からの事情しか聞いていなかったから
というのもありますが

成長するにつれ
父をどう論破するかというのを
頭の中でよく想像する様になりました

小学校6年生になると
僕は身長10cm伸び
体重10キロ痩せる偉業を成し遂げます

脱デブです

ミニバスも副キャプテンになり
チームのエース的役割を任されました
チームは激弱でしたが・・・

6年生になってからは
ミニバスも多少楽しめるようにまで
なっていました

そしてこのあたりから
人の心にかなり興味を惹かれていました

もちろんきっかけは
いじめ体験と親のうつ病

あとクラスメイトでした
クラスメイトの中に
よくケンカをする2人の男の子がいました

その2人をどうしたらいいのか
というクラス会議的なものが
当時よくありました

多くのクラスメイトが
その会議は好きでは無かったと思いますが
僕はなぜだか好きでした

なぜ喧嘩するのか
どうやったら解決するのか

ここに興味があったのです
そして普段は手を挙げないのに
積極的に自分の意見を述べていたのも

あのクラス会議でした

今思えば
あの時自分がしていた思考は
今のカウンセリングと全く変わらず
双方の感情を敏感に感じ取り
最善策を自分なりに提示していたと思います

そして僕の意見や感じたことを
採用されることが多く
その感覚が嬉しかったのもあるかもしれません

とにかくこの時から僕は
人の悩みに強烈な興味がありました

そして僕の悩みの研究は始まったのです
研究といっても当時はそんなつもりはありませんが
人の心の観察をこのあたりから始めました

○人の悩みを聴き始める

中学校に上がるとクラスメイトと
馴染めなくなりました

思春期真っただ中のクラスメイトは
徐々にクラス内にグループを構成し
陽キャ陰キャの様なものが発生します

僕はまずこれに戸惑いました
小学校までも多少のグループは
存在してましたが

ここまで露骨にグループ分けされるのか
という戸惑いがあり
僕はどのポジションに属していいか
全く見当もつきませんでした

陽キャの方が楽しそうだけど
なんか面白いことも言えないし
コミュニケーションもそこまで得意じゃない

かといって陰キャなのかというと
そうでもない

というより陽キャ陰キャの概念すら
当時はなかったので
ずっと中途半端な状態がずっと続きました

根っからの真面目君で
人の心に興味がある僕は
本当は深い会話をしたいという
密かな想いを秘めながらも

そんな人が周りにいるわけもなく
なんとなく日々を過ごしていました

なので僕は中学校のクラスでの様子を
ほどんど思い出せません

ただ僕が人の悩みを聴き始めたのも
中学校1年~2年でした

当時パソコンのメールが流行ってました
僕は教室でこそ人と交流しませんでしたが
メールの中でクラスメイトや部活の人達と
会話をしていました

そこで密かに相談を受けていました
毎日メールでやりとりしても
学校では話しません

密かにメールで人の悩みを聴き始めます
ここが僕のカウンセリングの原点です

正直聴き方や聴いている時の姿勢は
今と全く変わりありません

相手の感情や価値観を汲み取りながら話を聴き
一緒に解決策を見つけていく

当時と今で違うのは経験値と知識量だけで
僕は当時から意識してませんが
カウンセリングをしていました

それはカウンセリングではないのでは?
と思う方もいらっしゃるかと思いますが

本当に当時のやり方がベース
今のカウンセリングがあります

そしてなにより
人の悩みを聴くことで
僕は生きている感覚
がありました

人と深い繋がりを感じ
バスケットよりも
人の相談を受けてる時の感覚が好きでした

でも学校では話さないんですけどね笑

○さらに人の悩みを聴き続ける

高校に入ってからも僕のスタンスは崩れません

携帯が手に入り携帯で人の悩みを聴きます
ここでも相談者とは学校では特に話しません
度々人の相談を受ける様になります

そして母の愚痴も頻繁に聞くようになります

兄は高校卒業後1人暮らしを始めたので
家には自分と両親の3人暮らし
度々夫婦喧嘩になっても兄に頼れない暮らしになります

自分がなんとかしなきゃどちらかが死ぬのでは
と思いながら生活をしていました

学校は相変わらずうまく馴染めずにいました
いや、表面的には馴染めていたのかもしれません
でも僕の心の中では理解されないだろうな

という気持ちが日に日に強くなっていき
あまり自分のことを外に出さないようになります

人と深いつながりを持ちたい自分にとっては
人と深く関わる手段も持ち合わせておらず
そしてそんな余裕もありませんでした

だから表面上ではなんとか取り繕って
内面では孤独感を味わう日々でした

唯一人の相談を受けるときが
自分にとっての逃げ道となっていました
今思えば不純だったなと思います

この表面では人の相談に乗って
裏では孤独を味わうみたいな状態は
今後ずっと続きます

どうせ理解されない
どうせ誰も自分の話なんか聴いてくれないと
どこかそういう気持ちで過ごしていたように思います

だったらせめて人の話聴こう
いや聴きたいと思ってました

こんな複雑な心模様で大学に入ります


○深刻な相談が増え始める

大学に入る前に
やっぱり友達が欲しい
という想いが沸々と出てきます

その為に
高校卒業後の春休みを利用して

ファッションや料理を勉強したり
コミュニケーションを勉強したりして

少しでも自分に自信が持てるように
頑張っていました

大学は福祉心理学科に入学し
本格的にカウンセラーとしての道
歩み始めます

勉強のせいもあってか
大学ではコミュニケーションを克服
友達ができました

ただその友達に見捨てられないように
明るく振舞っていたので
家に帰るとどっと疲れるという様な毎日です

そしてこの頃から
相談内容も深刻化してきました

拒食症や躁うつ病の人などの
相談を受ける様になります

なぜ自分にこんなに相談者が
集まってくるのか見当もつきませんでしたが
自分としては頼ってくれることを快く思い

なんでも話を聴いていました
でも深刻な悩みの方のアプローチ方法が思いつかず
解決策をうまく見いだせなかったことが

当時の自分の悩みでした
家に帰ったら殴られるから帰りたくない
と言われたら

どこか匿える場所はないか探しても
結局そういう所にはいかない

自分にはできることはない・・・
自分の無力さを感じた瞬間でした

カウンセラーを頼ってはどうか?
第三機関に頼ってはどうか?
といっても行かない

でも自分には相談しに来ている

この時思ったのです
自分はカウンセラーになろうとしているのに
この相談者たちはカウンセリングを受けに行かない

この矛盾に煩悶します
自分がカウンセラーになったら
この様な人たちは相談しに来ないのでは?

だったら
カウンセラーではなく

カフェやバーなどの箱をつくり
そういった人達が
相談しやすい環境を作ったらどうか

大学4年生に思ったことです

悩みがある人の居場所づくりをしていきたい
そうして僕はカウンセラーの道をやめ

自分1人で道を創ろうと決意しました

○新しい道探し

その後大学を卒業して
就職もしなかったのでフリーターになります

自分で道を創るといったものの
さてどうしたものか

とりあえずカフェでの居場所づくりを目標に
僕は珈琲を習い始めます

個人店のお店で珈琲を習いながら
イオンにあるフランチャイズの
珈琲屋でアルバイトをして過ごしました

この頃はめっきり人の相談を受ける機会も減りました
今後どうしようとバイトをしながら
何度も煩悶しながら1年後

突然チャンスが舞い降りました
大学で交流があった方から
あるカレー屋さんを紹介してもらいました

そこで朗読のイベントが月1であるから
そこで珈琲を出してみないか
お声がけを頂きました

千載一遇のチャンス
この朗読会で月1で珈琲を淹れ始めました

そして出会う人出会う人に
自分は居場所づくりをしたい

という想いを伝えながら
珈琲を淹れるようになります

○旅に出る

2度目のチャンスが来たのは
ある友人からのイベントのお知らせでした

東京から0円で旅をしている
男女2人のイベントがあるからこないか?

普段ならいかないイベントでしたが
その2人にはずいぶんと心が惹かれました

そこでその2人に会う決意をしました
会ったとき僕の直観というものが
初めて働き

この2人は自分が知りたいことを知ってる
絶対このご縁を手放してはいけない

そう思ってその2人が滞在中
ずっと一緒にいました

その期間色んな心や精神的な話を聴きました
潜在意識という言葉を知ったのも
この時でした

そして彼らが札幌を去るとき
一緒に旅しない?と誘われました

僕はその時タイミングよく
次の月にはバイトを辞める予定でした
なので1か月後に博多で合流する

と言い一緒に旅をすることにしました

その期間僕は
旅に出るからぜひカンパしてほしいと
色んな人にお願いをしながら
珈琲を淹れて回りました

そして1か月後貯まったお金は10万円

そのお金をもって僕は
初の旅にいきました

○自分という存在を居場所にする

博多についた時
あの2人は岡山におり
結局1人で旅をすることになりました

旅の目的は
自分の今後の指標を決めること

この旅で色んな方と出会い
お世話になり
人の温かみにふれました

その中で出てきたのは
珈琲屋をつくって
居場所づくりをするのではなく

自分という存在が居場所そのものになり
珈琲を携えて心の悩みを抱える人に会いに行く
そういうスタイルで活動しよう

そう決意しました
旅から帰った後
珈琲癒人(コーヒーセラピスト)
という名前で活動を始めました

そこから色んなご縁がありました
色んなイベントで珈琲を淹れながら
活動をし人脈を広げていきました

そしてこの頃からまた
人の相談を受け始めました
ここで初のお金を頂いての悩み相談

珈琲を淹れて
その珈琲を飲みながらでのお悩み相談

というスタイルでした

○生きづらさに気づいた

珈琲癒人の活動を続ける中
僕の中で少しずつ違和感を感じ始めます

本当の自分を出せていない

色んな勉強を重ねながら
色んな人と交流していっているのに
なぜだか本当の自分を出せてないことに
気づき始めました

というより
本当の自分がよくわからなくなっていました

両親との関係もこの辺では良好ではなく
疎遠になっていました

そのうち
珈琲癒人の活動もうまくいかなくなりました

僕は自分が生きづらいという現実を
いつの間にか見て見ぬふりをし続けていたことに
気がつきました

あ、未来が視えない

そう思った時
僕はもう一度旅に出ることにしました
それは珈琲癒人になって3年目のときでした


〇もう一度旅へ

僕は妻がいます
2度目の旅はまだ知り合って間もない
後の妻と旅をしました

当時の彼女に僕は言われました
「本当はどう思ってるの?」
「本当にそう思ってるの?」

何か僕が喋る度に
この様に言われるのです

もはや自分の事が分からなくなっている時に
これらの言葉は刺さりまくりました
どう言葉を紡いでいいかもわからなかったのを
覚えています

旅では本当の意味で自分と向き合い始めました
本当の自分の想いや言葉を取り戻す旅でした

今まで勉強してきたこと
今まで経験してきたこと
それらを全部ぎゅーっとまとめて

本当の自分の想いや感覚を
思い出してきました

そして真に向き合うべきが
明確になりました

そうか自分は母と向き合わなきゃいけない

僕は両親から理解されてない
どうせ自分の話なんか聞いてくれない
という部分を根深くもっていることに
気づきました

○本当の自分へ

旅から帰ったあとに
僕は本当の自分の想いを
母にぶつけました

泣きながら
「俺の話を聴いて!!」
叫ぶように、嘆くように

何度も言いました

母は何度も話を遮るのですが
僕も諦めずに伝え続けます

そしてようやく
自分が納得する話の聴き方をして貰い
理解してもらいました

その時に自分の心の中が
すぅーーっと軽くなったのを
覚えています

そしてそのあとに
父から「陽介の珈琲が世界一美味しい」
言われたのです

父とは幼少期からあまり話していません
そして大人になってからも
あまり話していませんでした

この時両親は共にうつ症状は落ち着き
父は少しずつ笑顔も出る様になったり
会話をするようになっていました

そんな中で度々両親に淹れていた珈琲
そして喫茶店のマスターになりたかった父
正直最初は珈琲を僕がやり始めた時は

かなり反対というか
どうせうまくいかないと言われていたのです
その父から「世界一美味しい」という言葉は

心から嬉しかったのです

母と父両方に自分のことを
理解してもらった

僕はこの時本当の自分になれたのです

そして同時に
これまでの伏線が全部回収されていくかの様に
自分に自信が湧いてきたのです

自分は人の心がわかると思ったのです

心のメカニズムがスルスルと
脳内を駆け巡り
今までにない不思議な感覚になったのです

この感覚は説明しにくいのですが
この悩みはこれが原因
その解決策はこれ

みたいな形でスルスルでてくるのです

もしかしたら
今までもわかっていたのかもしれません

でも本当の自分じゃないから
どこか自分に蓋をしていたのです

そして顔や言葉や態度を視ただけ
どんな人かがある程度わかるようになったんです

これも過去にたくさんの人の悩みを
真剣に聴き深い部分まで考察してきたからだと思います


○人生の紐解き屋になる

僕はアダルトチルドレンでした
ただこの事実を知ったのは克服した後でした

僕の生きづらさは
両親から理解されてない、話を聴いてもらえない
という想いからでした

その想いを昇華したら
人からたくさん理解してもらえるようになりました

そしてなにより
安心感と心の土台がどっしりした感覚になりました

ただ僕はアダルトチルドレンの中でも
恐らく根が深くないタイプです

僕よりもっともっと
生きづらさを感じている方が居ると思います

僕は人生の大半を人の悩みを聴き
人の悩みの研究を行ってきました

そして研究していく中で気づいたことは
心の悩みの80%以上はアダルトチルドレンによる
生きづらさでした

多くの方が家庭環境に何かしらの事情を抱えており
その事情から心の傷を負ってしまっています

僕はこれからも歩みを止めることなく

多くの方の心の悩みと向き合い
全ての生きづらさを抱えた方に
これからも寄り添っていこうと思っています

それではここまで読んでいただきありがとうございました。

○後日談 


珈琲癒人はコロナ禍をきっかけに
珈琲の豆売りとカウンセリングで分業しました

なので実は
珈琲屋とカウンセリング業の2つが生業です

ただ珈琲は本当に僕の珈琲が好きな人にしか
売っておりません

珈琲よりもカウンセリング業の方が好き
ということもあります

そういえば
大学の時に相談者がカウンセリング受けないから
カウンセラーにならず

居場所づくりにいったんじゃないの?
結局カウンセリングしてるじゃん
と疑問に思う方もいらっしゃるかと思います

そうなんです
これも話すと長くなりますが
一周回ってカウンセラーになったんです

珈琲癒人の時は
カウンセラーとコーチング両方の手法を
僕はミックスさせた形のKIKUという形で
セッション
を行っておりました

ただこのやり方だとどうも
多くの方に理解されにくく
色々悩んだ結果全員にわかりやすいのは

結局カウンセラーというところに落ち着きました

僕のクライエント様からは
カウンセリングとかコーチングの枠から
いい意味で大きくはみ出してる
と言っていただけます

そこで人生の紐解き屋という肩書にしております
これは僕自身が決めたわけではなく
僕の大好きな方々に決めて頂きました

わかりにくくて大変申し訳ないのですが
人生の紐解き屋というカウンセラー
と思っていただければ幸いです

あとはここ10年以上で
カウンセリングというものが
わりと浸透してきている体感もあって

大学の頃に感じたカウンセリングを受けないのでは
という固定概念から解放されたという経緯もあります

それではこの記事を読んだ方と
1人でもお話できるのを楽しみにしております

人生の紐解き屋 関口陽介





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?