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「Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲ.spring song」公開初日の覚書(2020/08/15)

このあと原作再プレイなり全章見直すなりで、エビデンスチェックやファクトチェックはしますので、いまのところはあくまでただの覚え書きとして。それはちゃうやろ!とか言われても、そうですね……としか答えようがありませんのでご留意を……。
(著者註:2021年4月現在、この覚書を改稿するつもりはないが、型月伝奇作品群を媒介とした世界包握の試みは継続して行われるだろう。)

[Realta Nua]の映像化作品ではないということ

原作のテクストがあまりにも内容面物量面ともに豊穣であらゆるテーマを内包しすぎているので、どう取捨選択してメディアミックスしても変奏された印象を与えてしまう、つまり絶対に取りこぼしは生まれてしまうという状況のなかで、ここまで「出生/反出生」「妊孕」「散種(Dissémination)」のニュアンスを前面に押し出してきたとは!という驚きがあります。

ほんとうにこの辺が、二章をPG12(今更だがよくPG12で済んだな)(三章を映倫全年齢で通した功労者=“影”くんグッジョブ!)にしないと表現できなかったところの肝心な部分であり、原作で伝奇小説やアダルトゲームの文脈へと投げかけられていた身体性や生殖行為・食行為への反省的メタ意識を読み取れず桜を不遇ヒロイン〔第一回「Fate/stay night」キャラクター人気投票、第6位〕にしてしまったオタクたち(私もまたその1人だ)への監督・須藤友徳によるこの上なく痛烈な理解らせパンチなんですね。

またこのあまりに強すぎる解釈のもとで、私の中の「Fate/stay night」という作品像はまたしても強烈な一打を喰らい、今まさに組み変えられています。組み変えられながらこの文章をタイプしている。「Fate/Apocrypha」最終盤の赤キャスターの気分。そういう意味でほんとうに刺激的なメディアミックスだった。今からでも遅くないのでazm_hrkはちゃんとHFまで読んでから批評してくれ……。〔ついでだから言うけどkrd_mkt先生もちゃんとHFまで読んでくださいよ!〕

しかしよくよく考えたら、第三魔法というのは魂の物質化、すなわち肉体が肉体であることの根源的苦痛を拒絶しよう(「そんなヤツとは縁を切ろう」)という魔法なので、第三魔法の正式名称を冠する[Heaven’s Feel]が、肉体的生の問題系に真正面から向き合うのはある意味当然っちゃ当然の帰結なんですよね。
こんなに美しくも重層的なタイトル回収がかつてあったでしょうか。“Feel”という英単語一語からも、名詞形の“手触り”という物質的なニュアンスを、これまでより強く汲み取ってやらにゃあいかんな、という気持ちがあります。
それにともなって、II章主題歌・Aimer「I beg you」の「惨憺たるHeavenly feeling」ってなんやねん?という疑問がちょっとだけ氷解したりもした。

「食事にも毒を盛られて……」という桜の台詞で、嫌でもリフレインするのが以下の台詞。

「先輩のおうちじゃないと、ご飯、美味しく頂けなくなっちゃったんですから」

食事はセックスの代償行為みたいなことを井上敏樹も言っているし、身体の輪郭を撹乱するエンドサイトーシス/エキソサイトーシスという意味では食行為全般と性行為全般は近似しているみたいなことをフランスあたりのスキャンダラスな思想家たちも言うわけで、実際私もそう思っている。
間桐家は桜の肉体に出入りする全てのもの(=食事、呼吸、肉棒)を管理&統制し、それらが持つあらゆる享楽から桜を疎外(Entfremdung)した。それは肉体的生に固執した間桐臓硯が長年自身の肉体にも強迫していたことであり、それゆえにこれを他者に強いることにも何ら躊躇がなくなっていったのだろう。そういう“(非-)日常“があったからこそ、慎二は桜を陵辱したあとも、その危うげな精神的平衡を辛うじて保っていた(我々はもう間桐慎二を単なるクズと評することができなくなってしまった――他ならぬ須藤友徳の仕業で!)。
なればこそ、桜にとって士郎とは、すべて(すべて!)を与えてくれたひとであり、救うもの=掬うもの=英雄に他ならない。そのすべてにはセックスもまた必然的に含まれるのであり、銀幕Heaven’s Feelのあとを生きる我々は衛宮ごはんを観ながらでも「セックスやないか」と思わざるをえない。
「“HERO”はHとEROで出来ている」。士郎は、英雄としても性豪としても超一流のヘラクレスさんもお墨付きだからね。士郎ってすごいんだよ!
……いやね、なんか下卑た囃し立て方になっちゃったけど、II章の濡れ場のイノセンス加減・清廉さにはもう、わたし本当に度胆を抜かれたし、Ⅲ章で士郎と桜が額を合わせるところも稚気!となってしまい泣きかけた。嘘。泣いた。私は不器用なセックスにほんとうに弱い。私を泣かせたいなら私の前で不器用なセックスをしなさい。

まぁ要するにだ。こういう単なる“日常の代理表象“には回収できない肉体的生の諸相がしっかり描かれてはじめて、出生/反出生の問いがアクチュアルなものとして浮かび上がってくるよね、という論理を手を替え品を替え言い続けてるだけです。
生々しい性行為描写なしには、桜が自分の下腹部をさすりながら“我が子”の生誕を言祝ぐシーンにだって何の切迫性もないでしょ、ということ。
“悪阻”の影響を受けた妊婦の自己意識はいかように形成されるか“悪阻”の悪性の罪責性はいかに問われうるか、という最前線のクソデカ問題をシンボリックに扱っているんだよな! まさしく『生誕の災厄』。シオラン読んで満足できない奴は全員HF観な!

ufotableお家芸・象徴技法について

きのこポエムの大胆な映像化、“影“に触れたときの謎サブリミナル、人物背景にまつわる無限の空想を惹起するInterlude挿入……。
象徴技法には定評どころか無限の信頼すら置かれているufotableが、“この世すべての悪”というめっちゃ抽象的なものをいかに表現するかという点にはやはり注視していたわけですが……やつらなんとね、アンリマユ本来の“空虚性“・“可能態”の次元に我々を連れ戻しやがったわけですよ! もうこれにはね、舌を巻きすぎて、センター長の舌はお菓子のルマンドみたいになりました。
「Fate/hollow ataraxia」をやった方はおわかりでしょうが、アンリって本来殻を被らないと顕現できないほど薄弱で不定型な概念なんですよね。しかし「Fate/Grand Order」なんかを経て、我々はアンリをキャラクターとして理解し、たくさんの表象をくっ付けて咀嚼し、Character Voiceは寺島拓篤だと思ってるわけですよ。逆に言うと、我々のイメージを喚起できるような表象が手許にいっぱいあったわけです。それこそ西前忠久の逆みたいな話で、寺島拓篤の声にノイズを掛けて人ならざる声にするみたいなこともできたわけだ(似たようなことはFGO1部7章のアニメでもやっていますね)。
そういう手段が数多ある中で、あえて、あえてよ、後世付与された属性にはな〜んにも寄り掛かることなく、ただ“胎児”というイメージに殉じ、踏み込んだとしても“畸形の眼球4つ”という表現に留めおいたのです。これ以上具体的に表現してはいけないと悟っていたのでしょう。
未だ生まれ落ちていないものに悪の表象を貼り付けて悪に引きつけて理解するという安易で同語反復的な態度は、善悪二元論に無批判に追従し、アンリマユと呼ばれた存在を虐待して安寧を得ていた古代ペルシア人の態度と何ら変わらないよ、という批評性のステータスが、ここから生ずるのです。

イリヤスフィールがアンリマユについて語っていたときの挿入画像は、ありゃあ〜んまりにも明らかな現代文明批判でしょう。
いや、あそこも上手いうえに生々しいんだよな。あれって精神分析の“排除”概念、社会心理学の“排斥”概念の図表的な説明以外の何者でもないでしょ。それをあえて具体例をとることなく一般化して表現しやがったんですよ。
言ってみりゃありゃグーパンだよ、万人を殴るグーパン。
まぁね、ササン朝ペルシアとかいう全然何もわかってない謎国家のイメージを引っ張り出すというのも難しかったんだろうな、という事情も容易に想像できはするんですが。
全然話は変わりますが、筑摩新書の<世界哲学史シリーズ>、全体的には章の面白さがその人の講義の面白さに依存してるな……という感じですが、2巻の古代ペルシアの章(著・青木健)はスキマ分野の研究者の自虐なんかも相まって、読み物として手放しに相当Excitingだったのでオススメ。結局まだ8巻全部読んでないけどね……。

いま、Heaven’s Feelに刺戟されて、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』をパラパラめくっているんですが、やっぱり風土的背景としては、一神教的な荒涼な景色しか見えてきませんね。農耕国家なのでもっと豊穣な景色のはずなんだけど、どうもそんな感じはしない。そしてたぶん現代アメリカ人の大多数は、ゾロアスターと聞けば「2001年宇宙の旅」を想起するのでしょう。
誰だって本物のアーリマンやサタンを直視したことなんてなくて、後世人が付与した虚像と継承されてきた本像との区別なんて付けようがないわけです。ゴエティアの悪魔も仏法守護の夜叉たちも、元は別の地母神や土着神だったのがひとつの物語に組み入れられた結果の産物だったりするし。
わかりようのないものは、わからないなりに語ることしかできず、そのわからなさを深く自覚することからすべての物語が始まるということやね。

つらつらそんなことを考えていると、「Fate/Grand Order」のメインビジュアルにも多用されているあの青黒い金環日食のような聖杯のイメージって、禅僧廓庵が考案した十牛図の、「第八図:人牛倶忘」から来ているのかなぁ、みたいなことを思っちゃいます。
またまたオタク特有の牽強付会を……とかおもーじゃん。
違うのよ。根拠があって言っているんです。なんたって菌糸類は、『鉄鼠の檻』も『封印再度』も読んでるんですよ、ふふん!
「TYPE-MOON展所収・奈須きのこの本棚」、あまりに“文献資料“として強い。

原作台詞の取捨選択にまつわる思索

あっ、喋りたいことがあります。

「失せろ―――お前が存(い)たままだと、桜は 二度と笑えない!」

というモノローグのカットについて。
原作はとてつもなく長いモノローグですから、士郎が言峰の根本に向ける部分的共感と、それでも対峙を免れえないという苦々しさを含んだアンビバレンツな感情を、めちゃくちゃな文量で表現することができましたが、時間的制約のある映像作品では当然そうもいきません。
これはTVアニメ版UBWのときにも直面していた問題ですね。すなわち、思想を拳に籠めて闘うという一見カットしようがなさそうな場面を、どう縮約して表現するか/しうるかという問題。

先述の内心吐露は、桜の味方になるために善悪の此彼を分つ尺度を捨てた士郎の覚悟を補強するものであり、重要な一文でしょう。
テクストへの敬意に溢れた今作の脚本からこの一文を弾くという判断は、なかなか生半可なものとは考えづらかろうというものです。
それでもセリフのうえでは、士郎は言峰への慈悲的言及に終始し、それ以外の情感の大部分については杉山紀章の演技と士郎の表情に仮託すると決意した。

これはやはり、車の中や森の中で言峰が士郎に突きつけていた倫理的存在論の問い(≒出生の問い、無善無悪説)に対して、士郎は、「存る」ことに否を突き付けるという形をもって言峰の存在を否定することができなかったということ。
つまり、桜の味方になることを決めた士郎でさえも、オントロギッシュな価値判断については最終的に留保せざるをえなかった、ということなのだろうと思います。
つまりはここに、生々しい逡巡が見て取れるのです。性悪・性善に対する士郎の解答はずばり、「答えられない」なのです。〔善とも言わじ、悪とも言わじ。〕
「答えられない」という位相は今作において殊更強調されており、宙吊りにすること自体宙吊りにされています。イリヤが問うた「姉とは?」という問いに、凛は即座に答えられません

士郎には言峰を殺めなければならない絶対的な根拠などありませんでしたし、大聖杯の破壊あるいはアンリマユ生誕の否定を無条件に肯定してくれるものもいなませんでした。
さればこそ士郎の決断とは、紛れもなく他者に強いられたものではない、主体的な自由意志の産物なのです。だからこそ、その決断には責任が発生し、罪禍が満ちている
士郎が分有する〔=許さない……君を一生許(ハナ)さない!〕と決めた桜の罪悪はあまりにも深重で、人の身には余るからこそ、士郎は人を越えざるをえません〔=再誕する/輪廻する。物質化した士郎の魂は赤子のような状態で発見され、揺りかごに納められる〕。
しかし不老不死の身でその罪を背負い続けるというのは、想像するだに惨たらしい苦界・宿業の道ですから〔士郎を本気で可哀想だと思ったのは今回がはじめてだ!〕、隣には罪を分け持つ桜がいつまでも寄り添わなければ、そうしなければ士郎は救われないでしょう。
桜の隣に士郎が必要だったからこそ、イリヤと凛は士郎の蘇生に奔走した。では今度は、士郎こそが救われなくては、救済が相互性のあるものでなければ、この奔走が“身勝手”なものに堕ちてしまうではありませんか。実際問題、桜だけが“しあわせ”になるだけでは済まないのです。
Heaven’s Feelの凛もUnlimited Brade Worksの凛とおんなじで、士郎をひとりで歩ませることなんか絶対に許さないでしょう。第三法の扉を開いたあの世界は、あまねく救済されなければならない。
True endの桜並木の向こうには、彼らが第三法ひいては第六法と向き合い続ける長い永い物語が拡がっているのです……正統続編『ロード・エルメロイII世の冒険』を書くことになった三田誠先生、がんばってください!

蛇足

そういえばトーコさんのカメオ出演。外套+長髪ポニテ姿だったのは銀幕らっきょファンへの目配せなんだろうけど、封印指定明けたてのトーコさんが、聖杯戦争の数ヶ月後にわざわざスラブ語圏の辺境〔あの国はどこだ!?東欧解析班、たのむ……〕で人形(青子人形じゃん!)のやり取りをあの姿でこっそりやるというのは、一体全体どういうことナリ?
と思ったが……つまり第三法がそれぐらいの禁忌だって凛が判断したんだろうね。第六法への道のりはなんとも長そうじゃないか。
それか封印再指定が聖杯戦争直後だったか。あんた冠位の身分で一体何やらかしたんだ。まぁ大方エルメロイ本編のやらかしを問われたんだろうなぁ。
てか、もしかしたら2004年時点ではトーコさんってミッ●ーマウス方式で複数同時存在しうるのかもしれない。アルバ戦の反省を生かしすぎでしょ。もうFate2のラスボスになるしかないじゃん……

それにしても、初日舞台挨拶で須藤監督がぽろっと溢した「ロジック」という一語に、彼らのものづくりに向ける姿勢が現れてたよね〜としみじみ思います。
脚本用語としての「ロジック」というのが出ちゃった可能性もあるし、ミステリ研でロジックが〜トリックが〜言うときのニュアンスとはまた違った含みが当然あるだろうけど、構成の段階でロジカルシンキングを導入していることは自明だし、なんかめっちゃ納得してしまった。
銀幕HFは、ロジックを積み上げて突き詰めていけばああいう作品がつくれるんだという、ものづくりを志す人にとっての福音でもあり、バベルの塔なんだよな。
まぁ、でも逆に、あれがロジック抜きでポンと作られてお出しされてたら怖いからな。どこまでいっても人の業(わざ)というのが、作品のテーマとも響き合って、無限の反響を生んでいる。
その反響が狂った型月厨の譫妄めいた幻聴という可能性も、ここでは否定することができない。

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