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卑弥呼ファン集まれー(10)      「卑弥呼」は渡航した。❓❓

 さて、いよいよ「魏志倭人伝」へと入りましょうかネー。         「卑弥呼」一人を語るにしても、おおよそ1800年前の話で、100年前ですら分からないのにー。普通「忘却の彼方」にしまわれてしまうのでしょうねー。

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 「卑弥呼」話は、分かりにくいのでので、①いつ(When)・②どこで(Where)・③誰が(Who)・④なにを(What)・⑤どのように(Why)・⑥いくら(How)の「5W1H」の方法で解説してみましょうよねー。

 では最初は、①いつ(When)頃の話からはいりましょうかねー。     景初二年(238)六月倭女王遣大夫難升米等詣郡、           正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。   卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩、                    卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定        その当時の中国では、「漢」の時代で「前漢」紀元前236年~紀元後8年、「後漢」25年~220年、「魏」が220年~265年となっているのですよねー。    絳(こう)地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲綈文帝著皁衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失】
【臣松之以為(おもうら)く、「地」(ち)応(まさ)に「綈」(てい)と為すべし。漢文帝皁(そう)衣を著す、之(こ)れを弋(よく)綈(てい)と謂(い)うは是(これ)也(なり)。此の字不体なるは、朝之(の)失則に非(あら)ず、転写が誤る也(り)。】…を以てと学説ではなっている。
【臣松之以爲地應爲綈漢 女帝 着鬼衣硝之弋 之鬼此字不禮非魏朝之失】
 卑弥呼は弋の羽で作った衣装(又は、黄金色の黄色の衣)で会見に臨んだので、この鬼(黄色)無礼で朝見はできなかった。と記されていることは、卑弥呼が魏へ行ったのでしょうかねー。(倭人伝の中での文帝衣装の説明、構成上そう読むのは不自然です。)誤りは前文が「漢」後文が「魏」だけのこと。この文のなかで見えてくることは、前文は「漢」後文は「魏」と間違えられているのですよねー。「女王」が「魏」以前、「漢」すなわち220年以前に「訪中」した。

       「魏志倭人伝」原本

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三国史記(新羅本紀)

14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽烏を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽烏が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。新羅王自ら戦い倭軍は潰走した。新羅軍は追撃し倭兵一千が戦死した。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。秋七月、倭軍と沙道で海戦し倭軍が全滅した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。

三国史記(新羅本紀)「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。じゃなく「卑弥呼」が訪問したとも読めるのですよねー。

「卑弥呼」173年渡航して、様々な経験を積んだ。そして「籾の種を持ち帰った。」                              鉄器文化も持ち帰った。そのことが「播磨風土記」には、記されている。 正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。   卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩、 この頃のお話ということ。

 その他には、時間の読み方。「魏略曰 其俗 不知正歳 四節但記 春耕秋収為年紀」とあり、百済から年号の示し方が入ってくるまでは「四節」で「一年」になるのでしょうねー。


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