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32「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!

 私の昔の、出会ったことをお話ししましょうかー。
 私の子供のころ、天神さんの坂道の途中に「青年会館」があって、そこでお祭りの「花びらき」「乗り子」は行事が終わるまで遊んでいるのです。「花びらき」は、その後当時では庶民には手のでなかった御馳走「すき焼き」が頂けたのです。六所社の黒い古びた神楽のようなものがありました。私は、それを持って遊んだのは覚えています。現在の神楽のような赤色ではなく、そうもっと黒みがかったものとうるおぼえですー。同年代の村の者などに話しても、誰も覚えていないと言うのですよねー。でも私がこのようにして古史を調べていますと、それは、六所社のご神体だったのかもしれないとも思えるのですよねー。古い神社、阿遅須伎高日子根命神だったのかもー。❓❓ こんなこと言うと人が笑うよねー。(だって、誰一人その事実を知らないんだものー。)       

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安喜門院大弐
―続古今集― 8  哀傷歌  安喜門院大弐
少将内侍人にさうしをかかせ侍りけるを、内侍みまかりて後、ゆかりをたづねてつかはし侍りければよめる。 
( 侍=はべる 少将内侍=内裏に内侍として出仕した女性の女房名 )
 「 あはれにぞ露のゆかりをたづねける 消えにしあとに残ることのは 」(一四四四)

    安喜門院の下向に際しては、文殊堂(文殊菩薩像)の造営や石造五重塔(伝慶芳上人墓)・埴岡土佐守寅次郎夫婦の五輪塔・悟真院の宝塔(石造宝塔残欠・暦仁2年・1239) 阿弥陀種子板碑の造営も、この時期このような思いから造営されたものと推察するのですがいかがでしょうかねー。

慶芳上人の石塔修理

 慶芳上人の石塔修理が出来ました。上人は神積寺の開祖50を越える寺を建立!そして自ら即身成仏になられたと伝えられています。        11月には神積寺の千年祭が開かれます。近くですので立ち寄って見てください。福崎町北野区にあり兵庫県の文化財に指定されています。

石造五重塔(県指定重要文化財)
 石造の塔で層塔と呼ばれるものの一つで、基礎・塔身の上に笠を若干積み重ね、上に相輪を立てた形式の塔である。北野区の東端、神積寺西方の丘上に東面して建ち、慶芳上人の御廟所である。総高241cm、凝灰岩製で軸部の3面には薬研彫りで種子が刻まれている。1面は素面(北面)で、東面はバイ=薬師如来、南面バン=大日如来、西面キリーク=阿弥陀如来である。無紀年だが鎌倉時代中期のものと考えられている。

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埴岡土佐守虎次郎夫婦墓
 この墓石は、もともとは薬師堂の傍らにあったもの。戦後?何らかの理由により悟真院墓地に移設されたもの。

石造宝塔残欠(町指定重要文化財) 

画像3宝塔というのは、仏塔の一種で、構造的には一重の塔で基礎・塔身・笠・相輪からなり、笠の平面は四角、塔身が円筒形のものである。
悟真院の宝塔は、一石で彫成された基礎と塔身のみの残欠で、笠を失っている。塔身の正面には、蓮華座上に、像高21cmの仏像が刻まれている。一方、背面には、塔身から基礎にかけて、長方形の孔があり、奉籠孔という供養品を入れていた孔ではないかと考えられている。
基礎の正面に罫線を8行ほどこし、銘文が刻まれていて、造立の意図がわかる。「尺迦仏滅後二千二百年」と、釈迦入滅後の年数が刻まれており、仏滅紀年塔といわれるめずらしいものである。全国でも十数例しかなく、その中でも最古の紀年銘(暦仁2年・1239)をもっている。
この紀年銘は、現在のところ石造遺品として、県下で2番目に古いものである。悟真院の建物内にあります。

阿弥陀種子板碑                                                                                                    もともとは薬師堂の傍らにあったもの。

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板碑というのは、頭部を山形に切り、その下の側面に2段の切込みを入れた板状の碑です。身部と呼ばれる平面に、仏像容や種子と銘文を刻みます。この板碑は高さ1m53cm、幅82cm、厚さ19 ~21cmの堂々とした凝灰岩製の板碑です。
 正面に大きく阿弥陀如来の種子「キリーク」が薬研彫りで刻まれています。種子というのは仏菩薩を表す梵字のことで、一種の符号のようなものです。この種子の下には1行4字で12行の銘文が刻まれており、これにより後堀河天皇の皇后で弘安9年(1286)に崩御された安喜門院の百か日に建立された供養塔であることがわかります。
キリーク
 安喜門院禅定聖霊登霞呂来当百日忌□□造営建立此覩願此功徳増進仏道乃至法界平等利益弘安九秊五三五焉
所在地 福崎町東田原1891
指定年月日 昭和48年3月9日

 無縁墓
「覚超阿闍梨」や「安喜門院」の墓石は、元来、神積寺獅子吼苑(現文殊荘)あたりにあったものが、文殊荘等の建設のために撤収され、神積寺墓地無縁墓に積まれているんでしょうかねー。?

また文殊会式は、安喜門院(後堀河天皇の中宮三条有子)の命日の法要行事が始まりとなるのですかねー。

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新拾遺和歌集卷第三   夏歌  安喜門院大貳    夏の歌の中に      曉の おもひを添へて 時鳥 などいひ知らぬ そらに鳴くらむ

 増鏡  安喜門院                          さきの御門は四つにて廃せられ給ひて尊号などの沙汰だになし。御母后<東一条院>も山里の御すまひにていと心細くあはれなる世を、つきせず思し嘆く。この宮は故摂政殿<後京極良経>の姫君にてものし給へば、歌の道にもいとかしこう渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなきことをもたやすくもらさせ給はず。御琴なども限りなき音をひきとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、余りなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も限りなき御心ざしの中に、あかずなん思ひ聞えさせ給ひける。かの遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思し砕けつつ、いよいよ沈み臥しておはしますに、古く仕うまつりける女房の、里にこもりゐたりけるもとより、哀れなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、
  思ひ出づる 衣はかなし われも人も  見しにはあらず  たどらるる世に
また御手習ひのついでに、からうじてもれけるにや、
  消えかぬる  命ぞつらき  同じ世に  あるも頼みは  かけぬ契りを
 さこそはげに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いとかたじけなし。京極良経の娘、立子が入内する際の様子は先に紹介しました。さて、次は後堀河天皇の後宮の様子となります。
 はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なくかはりて、寛喜元年になりぬ。この程は光明峰寺殿<道家>また関白にておはす。この御むすめ、女御に参り給ふ。世の中めでたくはなやかなり。  これより先きに三条の太政大臣<公房>のおとどの姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしをおしのけて、前の殿<家実>の御女いまだ幼くておはする、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条后宮、浄土寺とかやにひきこもりて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿、摂籙かはり給ひて、今の峰殿〈道家、東山殿と申しき〉なりかへり給ひぬれば、又この姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。     めづらしきが参り給へばとて、などかかうしもあながちあらん。唐土には三千人など侍ひ給ひけりとこそ伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後にはおのおの院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひし殿の女御は鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり<藻璧門院>。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよくおはする、ひきこめがたしとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
後堀河天皇(1212-34)の後宮ですが、最初に太政大臣・三条公房(1179-1249)の娘、有子(1207-86)が貞応元年(1222)に入内、翌年に中宮となり、嘉禄二年(1226)に皇后、そして翌安貞元年(1227)に「安喜門院」の院号宣下があります。
 二番目に猪隈関白・近衛家実(1179-1243)の娘、長子(1218-75)が嘉禄二年(1226)に入内、同年中宮となりますが、寛喜元年(1229)、「鷹司院」の院号宣下があります。
 三番目として、安貞二年(1228)に関白が九条道家(1193-1252)に替ったことを受けて、道家の娘、竴子(1209-33)が寛喜元年(1229)に入内、翌年中宮となり、天福元年(1233)に「藻璧門院」の院号宣下があります。
 御堀河天皇と比べると三条有子が五歳上、近衛長子が六歳下、九条竴子は三歳上で、天皇自身は三条有子を慕い、近衛長子に追い出された形の三条有子が「浄土寺とかやにひきこもりて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどした」のだそうですね。
「世の中すさまじく思されながら」はちょっと意味が取りにくいのですが、井上氏は岩波・日本古典文学大系版の頭注(木藤才蔵氏)に従い、後堀河には好かれなかった近衛長子が「世の中を味気なく思いながら」(それでも父が関白なので中宮にはなった)と解されています。
 以上、さながら中宮の玉突き状態で、「めづらしきが参り給へばとて、などかかうしもあながちあらん」(新しい方が入内なさったからといって、どうしてこんな風に無理なことになるのだろうか)という『増鏡』作者の感想はもっともな感じがします。

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            ( 写真 柳田國男記念館前 伊勢太神楽 )    この地において、安喜門院尼僧のこの地での歴史的遺跡の存続がなければ、我々は、何一つその歴史・その根拠を立てて語ることが出来なかったのでしょうねー。特級の功績「南無阿弥陀仏」しかないですよねー。


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