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53「播磨風土記・ひのむら説」!! 4152pv!!

「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」説、「臺興・天豊津媛命」説!!         卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!!           〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、          左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。

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「リーリートロリートロリー ツルヒャラチリトコヒャラリヤトーロ オヒャリリオヒトオヒャリャリヤツルヒャ ツーヒャラリーヒャラリート」  北野神楽の「屋島」の笛譜面(8回の繰り返し)です。

「卑弥呼」「邑日野の条」説が、受け入れられない原因。
「邑日野」が、元亨元年9年(1321)に発生した「大山豪雨」で全て流出した。

「播磨風土記」原本には「所以云邑曰野者 阿遲須伎高日古尼命神 在於新次社 造神宮於北野之時 意保和知苅廻爲院 故名邑曰野」
 平成25年度3月「北野と妙徳寺の歴史」(新考)の中で、播磨風土記の「邑日野の条」について「オワチノ」説ではなく「ひのむら」説との解説を述べていますよねー。
「魏志倭人伝」「卑弥呼」に入る前提は、この播磨風土記の「邑日野の条」への確認がなければ、どれだけ言を尽くしても受け入れられないのですよねー。
 播磨風土記の研究については、柳田國男先生は、兄井上通泰氏にその研究を委ねていますが、「邑日野の条」については、うやむやに終わっていますよねー。解明できていないのです。(「大山豪雨」で全て流出した。が見えてないのでしょうかねー。)
 播磨国風土記「神前郡」邑曰野について、柳田国男先生の兄井上通泰氏は「播磨国風土記新考」の中で、現代の豊富町にある「新次神社」ではないと述べています。於新次社は、神崎郡新次神社ではなく、この新次神社は(元はかつらぎ社)で明治期に改称された。(井上通泰 「播磨風土記親考」より)

 私が、「深海の底」と述べているのは、福崎町山崎の「大塚古墳」の周辺の下野に「中村」「邑日野」があった。元亨元年9年(1321)に発生した「大山豪雨」で全て流出した。
 現在の 新町 駅前等は、福崎新の開発されたのは元和元年(一六一五)播磨国三木城主別所長治の臣志水輔右ヱ門則治が浪人として福崎河原野に住居した。(四国軍記第九巻又は神崎郡史参照)が、次の始まりとなる。
 ここの所に理解がなければ、全てのことが「馬耳東風」となるのですよねー。

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