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26「邪馬台国」to「柳田國男翁」!!法華八講

 和声英語 オーストラリアで、フイルムと写真店で言った。若い男女の店員さん2名、「ポカーン!!」通じないんだー。!! Yei-全体ビュー2000突破!!     Every one Thank you very much!!                      妙徳妙徳山神積寺は、平成26年11/8(土)から始まった「60年に一度の御開帳・一千年祭」稚児230余名のお参り、のもと盛大にとりおこなわれました。 薬師如来坐像から伸びた糸、五色の縁幕、歴史を感じることができましたよねー。また境内の紅葉や落ち着いた雰囲気の参道もこのお寺の魅力。    この「妙徳山」では、このほか毎年の「鬼追い式」(追儺式)。文殊会式等々の伝統文化が息づいているのですよねー。そんな中からの「卑弥呼・阿遅須伎高日子尼命神、臺興・天豊津媛命」説、「邪馬台国・邑日野」説。   これが、私がこの地に生まれ、生かされてきた「私の宿志」となるのですかねー。

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覚超阿蘭梨                              父ハ藤原ノ範郷上人幼ニシテ天夭チ出テ 比叡ノ横川ニ心拓ヲ洗ヒ 慈恵大師ノ髄法ヲ得テ 三千ノ僧徒ノ中之冠タリ 然ルニ陰徳ノ志深クシテ台岳ヲ退キ 其後三條院第七ノ皇子覚聖阿蘭梨 上人ヲ慕ヒ来リ(写真 妙徳寺参道)

慈慧大僧正伝
【その徒三千と雖も、堂に登る者七十子、室に入るもの四哲、曰く源信、曰く覚運、曰く尋禅、曰く覚超、或ひは顕に秀で或ひは密に秀づ】
                       『慈慧大僧正伝』より
覚超撰『私念仏作法』
 都率僧都覚超{960/952-1034}は、良源門下の四轍に数えられ、顕教を源信{942-1017}に、密教を慶円{944-1019}に学んだと伝わる。平安中期天台の学匠である。覚超の浄土文献は資料が少なくいずれも短篇であり、真撰が確実視されるものはわずかに「往生極楽問答】『修善講式』だけであるため、この二つの文献を中心として、今日にまで覚超の浄土教は把捉されできたといって良い。ところが青蓮院には「覚超僧都撰」と記された『私念仏作法』なる古写本が伝持されていたのである。
『私念仏作法』が,叡山浄土教において如何なる位置にあるか考察を試みることにした。まず『私念仏作法』の撰者から検討していきたい。
『私念仏作法』は、青蓮院所蔵本が現存するだけであるため、『私念仏作法』を批評して撰者を検討することはできない。諸目録にも「私念仏作法』が覚超に撰述されたことになる。
『修善講式】『至心発願 供養三宝 功徳威力 四恩法界 一切衆生、
  平等利益 速出生死 皆成仏道 結・・・ ・内諸人 現世安穏 後生極楽
衆生無辺誓願度。煩悩無辺誓願断。法門無尽誓願知。
無上菩薩誓願証。自他法界同利益、現当大願令円足
『私念仏作法』 至心発願。念仏威力、四恩法界 平等利益、護持仏子、滅罪生善 臨終正念、往生極楽。
 衆生無辺誓願度。  解説  人はすることがいっぱいある。
 煩悩無辺誓願断。   雑念はいっぱい湧き上がってくるが捨てなさい。
 法門無尽誓願知。   学ぶべきことは、無尽にあります。
 無上菩薩誓願証。
右のように両者は「・・の威力を四恩の法界に不等に利益し極楽に往生する」ことを願い、四弘誓願へと展開させている。

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              ( 写真  妙徳寺 八講台 )                      『今昔物語集』巻十九「内記慶滋ノ保胤出家語第三」に、出家した保胤が堂舎の建立こそ功徳の第一と思い、播磨国に行って人々に寄進を募り、材木を集めようとして下向した話がある。
 法華八講 法華経八巻を巻別に八座で講ずる。一日一座もあるが、多くは一日朝座、夕方二座で四日間で行う。八講は宮廷・私家・寺社において盛行。 天皇・国母の忌日を中心に行い、国忌八講と呼んでよい公的八講のほか、私家により臨時・恒例ともに営まれた。
 峯相記原文
 三条院第七宮覚照閣梨(福足・藤原繁子の義理の子)内供弟子トメ當寺々務行 仍國中彼勧進与シ上下彼願意随テ 堂舎仏閣奥行招天台ノ碩法華一乗ノ義理ヲ密教勤修ス

妙徳山縁起 (この地に伝承されとぃる妙徳山縁起)
 夫ン當山ハ人皇六十六代一條院ノ御宇内供奉慶芳上人ノ開基 一条三条両帝ノ勅願也 正暦二年当所ヲ経歴シテ有井村ノ草堂二宿ス 比ノ夜異人来リ告ク
 此ヨリ東ノ山根ハ 四神相應ノ梵刹佛法来生ノ岳面ナリ 汝此二薬師如来ヲ安置シテ 佛末ノ衆生ヲ得度セヨト告テ去リヌ 此ナン文珠ノ化身ナリ上人告二以リテ開き玉ヘル 即チ此レ當山ナリ
 父ハ藤原ノ範郷上人幼ニシテ天夭チ 出テ比叡ノ横川ニ心拓ヲ洗ヒ 慈恵大師ノ髄法ヲ得テ 三千ノ僧徒ノ中之冠タリ 然ルニ陰徳ノ志深クシテ台岳ヲ退キ 其後三條院第七ノ皇子覚聖阿蘭梨 上人ヲ慕ヒ来リテ永ク留錫セラレ数年後 獅子吼院二入寂シ王フ 上人開山ヨリ至今九百年 鎮護国家ノ大道場 當国六山ノ一也   至今900年は、1800年頃( 江戸後期の書類? )

 古文書「峯相記」では、「覚超阿蘭梨」の幼少期の、比叡山への入山について記載されていないが、 「妙徳山縁起」には、そのことがしっかりと記されているのです。
 この記述をもって「大鏡」の記述は、はっきりと「嘘」と断言できますよネー。   良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中 堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った。

 天元元年(979年)に右大臣に進められた兼家は、廟堂に復権された。また、翌年には父の遺志を継いで天台座主良源とともに延暦寺横川に恵心院を建立している。

 一条三条両帝御願所也 建立伽藍彼範郷(はんごう)妾妻両天皇乳母(藤原師輔の子・藤原伊伊の妹・藤原繁子・従三位・典持)依彼御願申成 多宝ノ塔讃州上貢三条院御建立 常行堂ハ土州貢ニテ一条院御願也

 このようなことから妙徳山神積寺は延暦寺横川に恵心院との同時期に建立され、良源門下の四哲に数えられ、都率僧都覚超 [九六〇 (九五二)― 一〇三四]がこの地にくだり、長和元年(1012)法門を開いた。ということが真実となるのですよねー。

 慶滋保胤、すなわち慶芳上人が東山の如意輪寺で没した。という記述は間違いであり。また「峯相記」に記されている「覚照」についても、歴史の史実から見て「覚超」の聞き違えと解釈するのが真実となるのです。
慶滋保胤は、「定祠」と言われ「即身成仏」された墓が現存している。という事実。
[三条天皇皇子覚照]                           長和元年(1012)神積寺へ長元3年(1030年)即身成仏 墓所 神崎郡福崎町東田原字大門1891番地 神積寺内(獅子吼園)と聞く。
という事実。からして「覚超」も妙徳山神積寺で没した。とするのが真実となるのです。

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念仏作法                                衆生無辺誓願度。  解説 人はすることがいっぱいある。
煩悩無辺誓願断。    雑念はいっぱい湧き上がってくるが捨てなさい。
法門無尽誓願知。    学ぶべきことも、無尽にあります。       私は、この「念仏作法」?のお経、昔、神積寺での「朝の座禅会」に2~3年間、参加したときに唱えられていましたよねー。と覚えています。
私は「卑弥呼・阿遅須伎高日子尼命神、臺興・天豊津媛命」説  「邪馬台国・邑日野」説の浸透・拡散が、「一大誓願」ですよねー。

埴岡家伝聞誌
余曾ッテ聞ク吾ガ姓埴岡氏ノ先祖ナル原因ノ往住ヲ尋ヌルニ頃ハ 人皇六十六代一條院ノ御宇    正暦二年 当国ニ飛シ妙徳山ノ開基慶芳上人是ナリ    姓ハ藤原大納言範郷ノ御子ナリ 比叡山ニ登リ慈恵大師ヲ師トシ薙染シテ顕密ノ二法ヲ修シ 仏法ヲ護持ス錫ヲ 慈時埴岡土佐守ナル者是レ則チ三条天皇皇子覚照ノ供奉ナリ ソノ後一千斛ノ寺領ヲ賜り即チ今田加冶谷大門北野等ノ三村ノ高一千斛 ニ宛ツベシ土佐守ハ則チソノ時ノ大官職タリ是レ即チ埴岡氏ノ氏祖ナリ 天災地変兵火ノタメ堂宇悉ク回録に罹(かか)ル 且ツ録ヲ廃セラレ衰退是ニ窮ス終ニ浮浪ノ身トナル。後北野村ニ住ス 聞キ問ウ今ノ埴岡利助ナル者ハ 土佐守ノ遠裔ナリ。故ニ土佐守夫婦ノ碑及ビ五輪二基ノ塔ハ 同村阿弥陀堂ノ傍ニアリ。亦ソノ子孫処々ニ散在ス。           この文章を著したのは、八千種郷の埴岡隆見という人である。隆見は西大貫村に往し代々医業を継承する家系に、文化四年(一八〇七年)八月八日に生まれ埴岡家七代目医師を務める。
                 編著発行 大門郷土史研究会 より 

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    「60年に一度の御開帳・一千年祭」開催記念碑の写真。

この「感謝」「ありがとう。」という言葉、一言で簡単。しかし「報恩」の気持ちが腹の底にないと「絵に書いた餅」。何か諺があったなー。子供でも知っているが、大人になっても出来ない。( 感謝だったかなー。)                道元禅師が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなものである。「宋の天童寺に留学中だった道元はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干しているのを見た。老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』 老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』                          『今やらねば何時にする。儂がやらねば誰がする。!!』だったよねー❓❓

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