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「卑弥呼」ファン集まれ―集まれ―!!(20)   やったぜー ベイビィー!!

 いよいよ最終稿となりましたねー。私は、何もない所からは何も生まれてこないと考えています。阿遅須伎高日子尼命神が「豊墝の神」と言われるのには、「漢」や「新羅」へ渡航して、稲作文化・製鉄技術の習得、その拡散をする中で人気が上がってきたのでしょうねー。三国史記(新羅本紀)173年 倭の女王卑弥呼が使者として訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)    ( 写真 福崎町「大塚古墳」 )

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「地元の伝承と古文書の対比表」

●この地の伝承     (記号同士を、合わせてくださいねー。)          「北野古宮」(みやでん)「六所宮」①「六御縣座主命神」                                                 ① 「神積寺」「山の神
         c「大塚古墳」 
         b「邑日野」「大山豪雨により流失」「諏訪神社」                                    ●播磨風土記「邑日野の条」
                                                            b「所似云 日野」   
                                                           ① 「阿遅須伎高日子尼神」 
                                                            a「新次社」「意保和知苅廻為院]院」
       ●「徒然草」  ① 唐橋中将の子に                                                 ●「日本書記」②「阿遅須伎高日子尼神」「天豊津媛命」

「魏志倭人伝」  
                       b 為國 舊百餘國 邪馬台国 a  宮室樓觀城柵嚴設 
       邪馬壹國 女王之所都 女子為王名日卑弥呼   千人 
                    ① 「卑弥呼」「少有権者」               
                    ② 「宗女 臺興」 
       c   卑弥呼以死「大乍冢」

 最後は、「天照大御神」神話、これも何もない所からは何も生まれてこない、すなわち「魏」の国の遠征、格段の武力の差による権力の委譲、傀儡政権、古事記に記されているように「私一人で、どうやってこの国を作ることができよう。 誰かの神と私で、協力してこの国を作ることはできないだろうか。」と執政が派遣されいるのでしょうねー。事代主命の娘を嫁にする。いとも簡単に「和睦」が成立しているのですよねー。阿遅須伎高日子尼命神(卑弥呼)についても、お前が「女王」をやれー。いとも簡単に「女王」となっている」のですよねー。戦っているのは「魏」の軍勢。                    「卑弥呼」(阿遅須伎高日子尼命神)が渡航した。シタテルヒメの兄で、高天原(魏)に復命しなかったために、死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。

 以上の事実を参考に、日本人の中心文化となる「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」伝説は生まれているのでしょうネー。ゆえに、卑弥呼が「天照大御神」であるのではないのですよねー。「卑弥呼・阿遅須伎高日子尼神」の伝説を参考に、後世に書かれた逸話(これがまた素晴らしいのですよー。)現実から理想への転換日本文化の中心を支えていますねーツ。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説                 これに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は御覧になり畏れ、開天石屋(あまのいはや)の戸を開き、立てこもられてしまいました。 その ため、高天原は皆暗く、葦原中国(あしわらのなかつくに)は悉く闇(くら)く、これによって常夜(とこや)が過ぎました。 そこで、万(よろず)の神の声がざわめき満ち、万の妖気が悉く発せられました。
 これによって、八百万(やほよろず)の神は、天安河(あめのやすのかわ)の河原に神の会議に集い、 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思案をさせました結果、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、 天安河の川上の天堅石(あめのかたしわ) を取り、天金山(あめのかなやま)の鉄(くろがね)を取り、鍛人(かぬち)に天津麻羅(あまつまら)を求め、 石凝姥命(いしこりどめのみこと)に担当させて鏡を作らせ、 玉祖命(たまのおやのみこと)に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を作らせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)を召し出し、 天香山(あまのかぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を打ち抜き、 天香山の天のははか[植物の名前]を取り、 占いを取り仕切り、天香山(あまのかぐやま)の五百津真榊(いおつまさかき)を根こそぎ掘り起し、上枝(ほつえ)には、八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を取り着け、中枝(なかつえ)には、八尺の鏡(やあたのかがみ)を取り懸け、下枝(しづえ)には、白丹寸手(しらにぎて)・青丹寸手(あおにぎて)を取り垂(し)でて、これら各種の物は、太玉命(ふとだまのみこと)が太御幣(みてぐら)として取りまとめお供えし、 天児屋命(あめのこやねのみこと)は、太祝詞を言祝ぎ申し上げました。
 そして、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)が、戸の脇に隠れ立ち、 天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、襷(たすき)に天香山の天(あま)の蘿(ひかげ)[=ヒカゲノカズラ]を着け、 鬘(かずら)として天の真拆(まさき)[つる植物]を着け、手草(たぐさ)として天香山(あまのかぐやま)の小竹(ささ)の葉を結い、 天之石屋戸(あまのいわやと)に桶を伏せ、踏み轟かせ、 神懸かりして乳房を出し、裳(も)の紐を陰部(ほと)まで押し下げました。
 この様子に、高天原(たかあまはら)はどよめき、八百万(やほよろず)の神は、一斉に笑いました。
 ここに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は怪訝(けげん)に思われ、細く天岩屋の戸をを開き、 内側から仰るには「私が隠れたことによって、高天原(たかまがはら)からして暗く、また葦原中国(あしはらのなかつくに)全てが暗くなるはずだと思っていたが、 何故に、天宇受売(あめのうずめ)は)楽しそうにして、八百万(やほよろづ)の神は、皆笑っているのか。」
 それに天宇受売が申し上げるに、 「あなた様に増す貴い神がいらっしゃいますので、歓喜して笑い、楽しんでいるのです。」 このようにお話している間に、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)がその鏡を指し出し、天照大御神に示して差し上げた時、 天照大御神はいよいよ不思議に思われ、僅かに戸から身を乗り出し、向かい合われた時、 そこに隠れて立っていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がその御手を取り、引き出し、 すかさざ布刀玉(ふとたま)の命、注連縄(しりくめなわ)を持ち、その御後ろ方に引き渡し、 「ここより内側に戻り入ってはなりません。」と申し上げました。
 このようにして、天照大御神が御出になった時、 高天原(たかまがはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)は、おのずから照りわたり、明るさを得ました。

 私も、最初のうちは「日本国の古代史」は、偽装が多いのではとも感じていましたが、「神武紀元前説は、外交上の説明?」、天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説は、みんな目に見えない力の「支配の中で、生きていることへの思い込み」を示した伝説となっているのですよねー。ゆえに日本人は、初詣が好きなのですよねー。「美しい心・日本の文化」、これで天台座主第253世山田恵諦大僧正の「世界で模範となる人間生活の場」を示せることが出来ましたでしょうかねー。

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 私が、もう一点、みなさんに是非にお聞きしていただきたいことは、「卑弥呼」ファン集まれ―集まれ―!!(15)に、記していた「長谷川善雄翁」。         それはねー。この地「カケアガリ」に住していた「長谷川善雄翁」の話ですよねー。太平洋戦争の敗戦。日本を分国の危機から救った。        けっして彼一人の力とは申しませんが「ポール・クローゼル公」に素晴らしい国「日本」と言わしめた!!「彼の功績は」どうあっても覚えておいて頂きたいのですよねー。( 藤原正彦 「国家の品格」より)

長谷川善雄 略歴 
   明治31年(1898)7月1日生―昭和30年(1955)5月4日没           新渡戸 稲造         1862年9月1日 - 1933年10月15日
(明治33年)に『武士道』の初版が刊行。
西園寺公望公              1849-1940  
ポール・クローゼル公        1868-1995                 フランス駐日大使(日本文学愛好家)
イーゼル県モルステル・パリ在住    1927  -  再度 出会ったか❓❓
柳田国男                1875-1962
原田熊雄         1888-1946
1913-1917     早稲田大学                            杵屋佐吉に入門 ポール・クローゼル公と知り合う。 
1917-1921     立命館大学法学部
1921-         フランス・ソルボンヌ大学留学
1924(大正13年)  千恵と結婚  住居 神戸市須磨区に転居
1929(昭和4年)   再訪仏フランス   ・「女形の研究」終稿
田原校校歌(小学校) 作詞 長谷川善雄・作曲 山田耕作
1929(昭和4年) 東京帝劇「娼婦マヤ」公演 (新築地劇団? 主演[細川ちか子]
1931 小松清のフランス語塾(神戸六甲山麓)
1931(昭和6年)6/5 「女形の研究」 長谷川善雄 著出版
1933(昭和8年) 「娼婦マヤ」 小松清・長谷川善雄共著 出版
昭和13  光り ポール・クローデル [著] ; 長谷川善雄 訳  立命館出版部  
昭和13  五つの大讃歌 ポール・クローデル [著] ; 長谷川善雄 訳  立命館出版部  
昭和14  前兆と寓話 ポール・クローデル [著] ; 長谷川善雄 訳  立命館出版部  
昭和15 クローデル随想 ポール・クローデル [著] ; 長谷川善雄 訳  立命館出版部 
昭和15 女とその影・外四篇 ポール・クローデル [著] ; 長谷川善雄 訳立命館出版部
昭和16 名女形松蔦 長谷川善雄 著 新陽社
昭和17     日本報国文学会所属
昭和17.10.25 播磨風土記現在編 長谷川善雄 著 立命館出版部(おおーい・おおーい!! 竹庵殿じゃないかー。)どこかで記しましたよねー。
昭和18.8.20 大詩人ポール・クローデルの研究  長谷川善雄 著 立命館出版部   
昭和20 神戸大空襲  カケアガリの本宅へ疎開






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