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「卑弥呼」ファン集まれー!!(8) 「大山豪雨」播磨風土記の邑日野消滅

    話が陰気な方へ進むので、ここで少し休憩、話題を変えましょうかねー。❓❓ 古事記も分からない文字だらけの中、現在文を読んでいるととってもエロチックなところがあるんだよー。エッヘッヘッヘー・・。         

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 古事記                                 これに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は御覧になり畏れ、開天石屋(あまのいはや)の戸を開き、立てこもられてしまいました。 そのため、高天原は皆暗く、葦原中国(あしわらのなかつくに)は悉く闇(くら)く、これによって常夜(とこや)が過ぎました。 そこで、万(よろず)の神の声がざわめき満ち、万の妖気が悉く発せられました。
 これによって、八百万(やほよろず)の神は、天安河(あめのやすのかわ)の河原に神の会議に集い、 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思案をさせました結果、 常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、 天安河の川上の天堅石(あめのかたしわ) を取り、天金山(あめのかなやま)の鉄(くろがね)を取り、鍛人(かぬち)に天津麻羅(あまつまら)を求め、 石凝姥命(いしこりどめのみこと)に担当させて鏡を作らせ、 玉祖命(たまのおやのみこと)に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を作らせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)を召し出し、 天香山(あまのかぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を打ち抜き、 天香山の天のははか[植物の名前]を取り、 占いを取り仕切り、天香山(あまのかぐやま)の五百津真榊(いおつまさかき)を根こそぎ掘り起し、上枝(ほつえ)には、八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を取り着け、中枝(なかつえ)には、八尺の鏡(やあたのかがみ)を取り懸け、下枝(しづえ)には、白丹寸手(しらにぎて)・青丹寸手(あおにぎて)を取り垂(し)でて、これら各種の物は、太玉命(ふとだまのみこと)が太御幣(みてぐら)として取りまとめお供えし、 天児屋命(あめのこやねのみこと)は、太祝詞を言祝ぎ申し上げました。
 そして、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)が、戸の脇に隠れ立ち、
  天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、襷(たすき)に天香山の天(あま)の蘿(ひかげ)[=ヒカゲノカズラ]を着け、 鬘(かずら)として天の真拆(まさき)[つる植物]を着け、手草(たぐさ)として天香山(あまのかぐやま)の小竹(ささ)の葉を結い、 天之石屋戸(あまのいわやと)に桶を伏せ、踏み轟かせ、 神懸かりして乳房を出し、裳(も)の紐を陰部(ほと)まで押し下げました。
 この様子に、高天原(たかあまはら)はどよめき、八百万(やほよろず)の神は、一斉に笑いました。
 ここに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は怪訝(けげん)に思われ、細く天岩屋の戸をを開き、 内側から仰るには「私が隠れたことによって、高天原(たかまがはら)からして暗く、また葦原中国(あしはらのなかつくに)全てが暗くなるはずだと思っていたが、 何故に、天宇受売(あめのうずめ)は)楽しそうにして、八百万(やほよろづ)の神は、皆笑っているのか。」
 それに天宇受売が申し上げるに、 「あなた様に増す貴い神がいらっしゃいますので、歓喜して笑い、楽しんでいるのです。」 このようにお話している間に、  天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)がその鏡を指し出し、天照大御神に示して差し上げた時、 天照大御神はいよいよ不思議に思われ、僅かに戸から身を乗り出し、向かい合われた時、 そこに隠れて立っていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がその御手を取り、引き出し、 すかさざ布刀玉(ふとたま)の命、注連縄(しりくめなわ)を持ち、その御後ろ方に引き渡し、 「ここより内側に戻り入ってはなりません。」と申し上げました。
 このようにして、天照大御神が御出になった時、 高天原(たかまがはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)は、おのずから照りわたり、明るさを得ました。                                この①の部分は、男の一番好きなところ。                ②の部分は、女の一番好きなところ。となるのかなー。❓❓

 このページ「卑弥呼」を探している。卑弥呼は阿遅須伎高日子尼命神。   今、どうして探しあてたのかの説明なのですよねー。退屈だよねー。だって以前に「深海の底」って言ったでしょうー。まー聞いてねー。

それでは、まず「大山豪雨」に入りましょうかー。❓❓          この「邑曰野」考で、絶対に外してはならないことが一つあります。   それは「大山豪雨」事件です。この地、神前粒の歴史を語るうえでそれは絶対に見逃してはならない事件なのです。
 今から約650年程前の鎌倉時代、元亨元年9年(1321)に発生した「大山豪雨」ですよねー。
 この大豪雨で、神河町大山で大きな山崩れがあったとか、千束山が流れ、この周辺一帯が川原となり、また田原郷でも市川の流れが変わり、落合から船津町御立まで直接に南下してしまったとその伝承は八反田・長目にも数多くあります。
 上田中の諏訪神社は、もともと西田中字杉谷というところにあったそうで被害を受け現在地に移され、北田中の「流れ薬師」もこのとき流れついた薬師さんを村人達はお堂を建て丁重にお祀りしているとのことです。
 この地の太古の歴史を語るうえでは、この事件(元の市川は落合から今の播但線沿いに西へ流れ、高橋の佐本ヶ淵に繋がっていた。)事実を見逃しては、何を語っても出鱈目となるのですよねー。
 この地福田地区には、現代でも曰野姓が現存しており、菅原道真が邑菅原から菅原を名乗るようになったのと同様邑曰野から曰野姓が発生したと考えるのが至当ではないかと考える。                      また、福崎の文化「播磨風土記地名が語る古代の神崎郡」近大姫路大学松下正和教授によれば、今でいう出屋敷あたりに北野添・下野添・東野添・佐本等の小字が福崎町西治地区との接点にこの地名が残っていることから考察すると七種川までが「邑曰野」と呼ばれる範囲であったのではないかと考察できるのですよねー。
 またこの頃「邑曰野」と呼ばれる所では、上流部を上野、下流部を下野とも言っていたのでしょう。「和名抄」での「槻田の野」が「北野」となったのでしょうかねー。              (  写真 三の宮 旧中村のお宮? )

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 福崎の地名と風土と歴史 
                      福田  日 野 清
「はじめ」福崎に生まれた、日本民俗学者柳田田男先生「諸国の旅を重ねて後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍らしい好い処であった。水に随う南北の風透しと日当り、左右の丘陵の遠さと高さ、稲田に宜しき緩やかな傾斜面、仮に瀬戸内海の豊かな供給が無かったとしても、古人の愛して来り住むベき土地柄であった。繁栄の条件は昔から備わっている。」と、柳田国男全集第九巻「妹の力」に書いておられる。
「ふるさとは遠きに在りて思うものなり」私は昭和八年より二十一年迄の間、大阪・東京・名古屋・京都の生活を経て思った。福崎は人間の居住するのに理想的な土地だと。その事を私は部落の育友会長をしていた時に、子供達に語り、子供達が郷土に誇りをもつようにと郷土史の研究を志した。
 福崎の地名
 現在の福崎町は、昭和二十一年五月三日に旧福崎町と旧田原村旧八千種村が合併して発足したものである。
旧福崎町は明治二十二年四月に町村制が施行され、福崎新、馬田、山崎、福田、田口、高岡(板坂、桜、長野、神谷)、西治、高橋の八ヶ村が合併して福崎新の新を省いて福崎村とした。
福崎新の開発されたのは元和元年(一六一五)播磨国三木城主別所長治の臣志水輔右ヱ門則治が浪人として福崎河原野に住居した。(四国軍記第九巻又は神崎郡史参照)福崎河原野の名称の起原は記録はないが、大山洪水により以前は山崎に沿って福田地区寄りに南下した市川の流が急激に東に大移動し、広い河原野が出現したため、福田の福と山崎の崎をとって福崎河原野と名付けたと考えられる。

 大山洪水と市川の変流の研究
    上田中諏訪神社の由緒書に当神社は往古山崎村字杉谷に鎮在せられあったものが後醍醐天皇元享年間(一三二一)大山洪水によって市川の幹流急変し同水氾濫して杉谷を浸したので村民相談して北田中村字神田に遷座し其後現在の地に再遷し奉ったせられあったものが後醍醐天皇元享年間(一三二一)大山洪水によって市川の幹流急変し同水氾濫して杉谷を浸したので村民相談して北田中村字神田に遷し其後現在の地に再遷し奉ったと伝えている。大山村猪篠の山岳部に集中豪雨あり、山岳の崩壊、池沼の決潰の為大洪水となり、市川流水が大変革をなして杉谷(山崎地区の西北の谷) に迄水が流れ込んだとある。山崎地区の入口に立石という地所があるが其処の土地の高さは手城山の高さと同じと言われていた。又伝説によると往古は手城山沿の東南は川幅が非常にせまかったので大洪水の時に塞き止められて、新町、馬田がつくられていない時であったがその辺は大湖のようになったので、三の宮の氏子の中村部落は全戸流失した。 又高橋地区の佐本が淵では川岸に犬や牛や人の死骸が無数に山となって打ちあげられていた。その膨大な水量の成力が
手城山の岩盤にさえぎられて対岸の長目地区其の他を浸蝕して土地を決潰していったことが市川の流が東に移動した原因と言われている。これを後世に俗に天魔のたたりによる大山洪水といった。

 播磨風土記に見る古代福崎
 紀元前三世紀以前の縄文時代の福崎についてははっきりわからないが、当時の人は狩猟や漁撈の生活をしていたと思われる。
 紀元前後三世紀の弥生時代になると、アジア南方原産の稲が中国、朝鮮を経て入ってきた。これにより農耕生活が始まり、福崎のような農耕集落社会は画期的、飛躍的な発展をした。
 和同六年(七一三)今より千二・三百年以前に記された風土記に「伊和大神の子建石敷命が山使(サキ)村の山に鎮在したので、この山を神前(サキ)山としてその辺を神前といい更に郡名を神前郡といった。と記されている。(大古の昔は統治者は皆神であった、日本語の上の意、また命たちである)出雲からきた英雄で後に播磨の国づくりをした伊和族の勢力が大挙進入して、先ず背後地に山があり微高地が東西に開け、更にその底地に水の流れのある山崎の地に本拠を設けたのである。
そして、その周辺を開発し、底地には水田を設け、微高地には農耕集落が創められた。「此里有 高岡 故號 高岡」とある高岡の里である。(旧福崎地区、甘地地区等)当時の里制度は五十戸を以て里と称えられていた。一戸の構成人員は十人より二十人であったので一箇所の里には千人より千五百人が生活していた。
 又、市川の東のあたりには多馳の里(田原、八千種地区等)が創設されていた。尚当時代に播磨の二大勢力である伊和族と、天日槍族(新羅王子で妻アカル姫を追って渡来した帰化人で姫路白国より市川沿いに遡ったと考えられる)所以云糠岡者、伊和大神与天日挨二神各発軍相戦 爾時大神之軍集而春、稲之、其粳 為丘故曰 粳岡その粳が集まって丘になったので粳岡の地名が出来た。
 又天日挨側が八千軍の軍兵の陣地としたので八千軍野(八千種)と日ったと述べられている。右の記事より見るとその当時この土地に約二万の軍勢が往来しそれを養う糧食が多量に集める事の出来る多くの農耕集落が実在していたことが推考される。

古代の福田部落 
 福田部落についての古代からの記録はないが、福田という地名は、地名学者丹羽基二氏は「川岸にある表上の深い肥えた土地が多い」と記している。
 背後に山を負い南面に緩やかな傾斜地が広く展開し、その前方に七種川の流があり、東南方には市川の流があって両方の流が交差し、その川岸には表上の深い土地が生じた。それは稲作には最も適当な場所であった。それ故にその土地に最も早く農業集落が創設したのは当然であると思われる。
 農業集落では早くから勢力をもつ有力者が多くの上地を獲得し食糧を蓄積していた。そしてそれらを持たない者を支配し、豪族が生れた。
 そのことは福田区内の裏山に今も現在する東大谷、宮山、上垣内、小山の各古墳と其処より出上したと思われる「くり抜き式家形石棺の身」(現物は福崎西中学校の前墓地の焼香場の焼香台となっている)が証明している。
 当時の古墳は豪族達が自分達の権力を誇示する為と、死者の霊がその所に止まって部落を守っているとの思想からであったが六世紀後半に仏教が伝来してより衰え大化の改新後消滅した。
 それにとって代って寺院が設立されるようになった。 図説日本文化奈良時代によると飛鳥時代には摂津、河内、山城、播州、備中で四四〇、白鳳時代は五五〇、奈良時代には九五〇を越えて創設されていった。
 右の奈良時代に福崎に規模のかなり大きい寺院が創建されていたことが、昭和五十三年十月末、福田区の町文化財回寧倉を解体修復工事で敷地を掘返した時、発見された。
 表に格子縞模様、裏に布目のある奈良時代使用瓦が多数発見されたのである。今後、礎石等の調査が進めばいっそうはっきりする。当時の寺院は其の里の首長が自分の権力を誇示し、宗教、政治、文化の拠点としてつくったものである。
 我がふるさとの精神風土に就いて近世の明治大正時代迄の頃によく言われた、播州(福崎)の人間(人と人との間柄、隣人と隣人の間の愛情関係)が一番長くない好ましくない。右に柳田国男先生には御迷惑と思われるが先生全集第九巻の一節を引用すると「我村は……は繁栄の条件が昔から備わっている。従ってややともすれば生活のよ過る余り、楽しい生活に執着するばかりに、争うまじき人々が争い且つ闘った。嘆きつつ遠くに出て往った者もあれば、去る能わず苦しみ悩む者も実はあった」とある。
 色々と考えることもあるが、要するに播州もその福崎も地理的外形環境の優良さが精神面では裏日に出たのであろうか。              む す び
「古人の愛して来り住むべき土地柄で……繁栄の条件は昔から備っていた」この土地を更に向上発展させ住みよいふるさとを、つくることはお互いの役割であり責任ではなかろうか。今日の福崎町では人間関係を良くする各種の行事が進んでいる。
 相互に争いと憎をもたない、隣人を愛する良い人間関係をつくることこそ「明るい住みよいふるさとづくり」の基本である。私たちと、今後この町に移住される方々も共々にいつまでも喜びと誇りをもって住めることの得られる、福崎の名にハッピートツプ 「 ふるさととなるのを祈る。」

 諏訪神社  由緒                           往古山崎組山崎村字杉谷(現在の神埼郡福崎町山崎に属せる地)に鎮座せられしも後醍醐天皇元亨年間(1321~1323)大山洪水の、市川の幹流急変し河水氾濫して杉谷を浸したるに村民相議して北田中村字神田遷座しその後、霊元天皇延宝年間(1673~1681)現在の地に再遷し奉りしと伝う。
 藩幕時代武神として姫路藩主の崇敬頗る篤く年々幣帛の共進を受けたり、就中酒井家の敬神は特に深く毎年例祭には姫路惣社の能楽師を特派して拝殿に於て能楽を奏し神慮を慰め奉る。 明治5年(1872)拝殿を上棟し、同7年(1874)2月村社に列せられる。

                    福崎町「かたりべ」より

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