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33「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!

ああーッ。こんな素敵な歌が 浮かんできましたよねー。

白い雲よ  どこへゆくー
青い空を  キャンバスにしてー
そこから日本の   明日が見えるかいー
麦畑 糸とんぼ   稲穂わたる風―
ああー 日本ふるさと   私の心 ―
母の ふところよー  白い雲

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令和3年2月 福崎の喫茶店「河童の散歩道」で、「藤野ひろ子」さんに出会いましたよねー。
後に、検索して見つけたもの。「雲に抱かれて」藤野ひろ子。
「麦畑 糸とんぼ 稲穂わたる風」そうなんですー。
日本の「稲作文化」は、この「田原」から始まっているのですよねー。

さて、「文殊会式」に入りましょうかねー。その前に

神積寺 安喜門院

 安喜門院(三条后)は、後堀河天皇の皇后ですがまず語られなければならないのが、徒然草「第一〇七段」なのです。
 徒然草 吉田兼好 (1330年8月から1331年9月頃にまとめられた。)
「女の物言ひかけたる返事」
「おんなのものいいかけたるかえりごと、とりあえず、よきほどにするおとこはありがたきものぞ」とて、かめやまいんのおんとき、しれたるにょうぼうども、わかきおとこたちのまいらるるごとに、「ほととすぎやききたまえる」とといてこころみられけるに、なにがしのだいなごんとかやは、「かずならぬみは、えききそうらわず」とこたえられけり。ほりかわのないだいじんどのは、「いわくらにてききてそうらいしやらん」と仰せられたりけるを、「これはなんなし。数ならぬ身、むつかし」など定め合はれけり。
すべて、おのこをば、おんなにわらわれぬようにおほしたつべしとぞ。「じょうどじのさきのかんぱくどのは、おさなくて、あんきもんいんのよくおしえまいらせさせたまいけるゆえに、おんことばなどのよきぞ」と、ひとのおおせられけるとかや。やましなのさだいじんどのは、「あやしのしもおんなのみたてまつるも、いとはずかしく、こころづかいせらるる」とこそおおせられけれ。おんなのなきよなりせば、えもんもかむりも、いかにもあれ、ひきつくろうひともはんべらじ。
かくひとにはじらるるおんな、いかばかりいみじきものぞとおもうに、おんなのしょうはみなひがめり。にんがのそうふかく、とんよくはなはだしく、もの理ことわりをしらず。ただ、まよいのかたにこころもはやくうつり、ことばもたくみに、くるしからぬことをもとうときはいわず。よういあるかとみれば、また、あさましきことまでとわずがたりにいいいだす。ふかくたばかりかざれることは、おとこのちえにもまさりたるかとおもえば、そのこと、あとよりあらわるるをしらず。すなおならずしてつたなきものは、おんななり。そのこころにしたがいてよくおもわれんことは、こころうかるべし。されば、なにかはおんなのはずかしからん。もしけんじょあらば、それもものうとく、すさまじかりなん。ただ、まよいをあるじとしてかれにしたがうとき、やさしくも、おもしくもおぼゆべきことなり。                               (「北野と妙徳寺の歴史(新考)」)p100~101より

神積寺が中世に残続の不思議

 天皇勅願寺だった神積寺は、1300年頃までは九条家の加護の中で隆盛を見ているのである。1309年僧兵が他の戦の加勢の留守中に本拠が襲撃され焼失したとは聞かされている。
 また、当時の僧が広く勧進を行い金堂・講堂の二堂を再建したことは記されている。また、延徳二年(1490年)8月五日 不慮の出火で焼失した。
同時に有馬法師により天正 16年(1588年)再建された。とまでは寺伝に記されているようです。
 有馬法師がなぜ「神積寺」の再興に取り組んだのか。この時期とそれ以降の江戸時代の妙徳寺についてはだれも語っていないのか・ないのか全く闇の中となっている。延慶年代に 妙徳山神積寺が 火災でなくなった時より二十五年後に元弘の乱がおこりました 妙徳山の偏正院・金剛院より、騎馬三人・歩兵二十人旗揃して着到、同じく田原庄神主「文殊院」これに同列するとあります。

 私が、この「有馬法師」「有馬顕頼」にたどりつくまでには、西暦2000年から10年の歳月を要しているのです。また、安喜門院「女の物言ひかけたる返事」の発見には、またその後の7~8年、「卑弥呼」までには20年余の歳月を要しているのですよねー。


 有馬法師のこと

「田原荘」「神積寺」は、天正 16 年(1588年)に有馬法師により再建されたことは「妙徳山縁起」にかかれています。
 有馬法師は、豊臣秀吉の命により火災や地震などによって衰退していた有馬の湯を再興させ、北政所や淀君を伴って度々来湯した。また、秀吉の造った湯殿とか「おね」の別邸等がというのが最近発掘されたり継承されている。
 有馬法師こと有馬顕頼は、織田信長の命により豊臣秀吉が播磨平定に取り掛かった当初の頃から秀吉に参軍したと記されており、信長死後の清州評定のときには、柴田勝家側から終始秀吉を守ったとも記されている。
 このようなことから有馬顕頼は、秀吉のお伽徒衆として取りたてられ、「有馬法師」と呼ばれ、秀吉正室「おね」やその周辺の者とも相当近かったのではないかと考えられる。
 有馬法師がなぜ「神積寺」の再興に取り組んだのかを考えたとき、私は秀吉正室「おね」が、このことに深く係わっているのではないかと推測する。
安喜門院「女の物言ひかけたるかへりごと」が『徒然草第107段』の中で記され、秀吉正室「おね」が、安喜門院との同じような境涯に感銘があったのではないかとも推測から秀吉正室「おね」から「安喜門院」への寄進とも推測されるのです。
 なぜなら、徒然草は1330年頃に吉田兼好によってかかれたが、当時は全く見向きもされず100年後爆発的な流行を見たといわれています。時代背景から見ても丁度その頃、織田信長が勢力を強め、愛知・岐阜へも京の文化が流れた時と重なるのです。
 またこの時期に、有馬顕頼氏が秀吉正室「おね」に大判5枚を借りていた返済状等の存在から、有馬氏と「おね」の相当な親密関係が見受けられる。
 神積寺の再建には「おね」の関与(播磨国出身の有馬則頼に依頼)がなければ、有馬顕頼氏が神積寺の再建に関与する理由がなく、また後の将軍家からの文殊堂の再建にも繋がらないことが推測されるのではないでしょうか。
 このことは考えるというのではなく、有馬法師等の考察の中から自然と繋がって(導かれて)来ていることは素直に宇宙の原理なのかも知れないとも考えるのです。              (「北野と妙徳寺の歴史(新考)」)p109より


 文殊堂の再建も、将軍家からの命により、池田輝政公が修復に携わっていることが文殊堂の記録等から述べられているが、さきに述べた「秀吉が北政所や淀君を伴って度々有馬の湯に来湯した。」と言う記述から、      当然その中には当時の「江姫」も同伴していたことは容易に推測でき、文殊堂の再建も  正室「おね」の頼みか「江姫」自身の願いからかが、この文殊堂の修復に繋がっているということも推測できるのではないでしょうか。

 私が、何故こんなこと(歴史)に情熱を注ぐのか。それは、私自身の世の中への「恩返し」福崎の地への「恩返し」なのです。これ位いのことしかできませんが、誠の理由はそこにあるのです。

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 一週間ほど前「典座則」でお茶を濁しました。その時に述べたかったのはこの一説です。                             「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」 
しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう
 諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。
 そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。

サッバパーパッサ アカラナム  sabbapâpassa  akaranam
クサラッサ ウパサムパダー   kusalassa  upasampadâ
サチッタパリヨーダパナム     sacittapariyodapanam
エータム ブッダーナ サーサナム  etam buddhâna sâsanam
 これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」といわれるものです。七仏とは過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。お釈迦さまは自分は古仏の跡を歩んだのであるとされ、この過去七仏の存在を説かれました。そして、この過去七仏も同じく説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」というのです。つまり、これはお釈迦さまだけが説かれるのではなく、昔よりこの世にあらわれた諸仏がみな同じように説いている普遍の真理なのだという教えをあらわしたものです
 仏の教えというと難しいことを考えますが、四苦八苦なるこの人生を「生きていることは尊いことだ」「生きていることは有り難いことだ」、この人生を最善に生すとはどういうことかということでしょう。それを、つきつめれば、「諸悪莫作・衆善奉行」なのです。簡単でわかりやすい教えなのですが、身体でその真理を受けとめることになるというと簡単な修行ではありません。
 白楽天という詩人がいました。本名は白居易。唐の代表的な詩人で、晩年は、詩と酒と琴を「三友」として、悠々自適の生活をおくったという知識人です。白楽天の詩はご存じかと思いますが、在世中から民衆に親しまれ、牛追いや馬子までがこれを口ずさんだといわれています。

林間に酒を温めて紅葉を焼く
遺愛寺の鐘は 枕をそばだてて聴き
香炉蜂の雪は 簾をかかげて看る
 などの詩歌は、『長恨歌』や『琵琶行』とともに、わが国でもよく知られています。
 白居易は、大暦七年(772年〕、河南省の新鄭に地方官吏の次男として生まれました。彼は29歳で官吏登用試験に合格し進士となります。順調に官界コースを歩んでいましたが、40歳のとき母の死にあい、重ねて幼い娘の死に遭遇します。ここに彼は、儒教では解決しがたい人間の「死」の問題に直面し、道教や仏教に関心を強めました。しかも、しばらくして白居易は政治的に失脚し、左遷!。いよいよ彼は、仏教・道教に傾斜していきます。白居易、50歳の時です。彼はみずから求めて、杭州刺史となって赴任します。刺史とは州の長官、今の県知事に当たりますが、首都の権力闘争を避けて、彼は地方に出たのです。
 杭州の秦望山には、鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼ばれる名物禅僧がいました。この禅僧、山中の松の木の上に巣をつくって稜み、木の上で坐禅をしていました。白居易は、この和尚の噂を聞いて、ある日、面会に出かけて行きます。白居易は、木の上で坐禅している道林を見るなり、こう叫んだ。
「禅師の住処、甚だ危険なり!」
 白居易は、少しは仏教を学んでいる。それで、鳥彙道林をへこましてやろうとする気があったのでしょう。わざわざ木の上で坐禅をする。そんな奇をてらった和尚にいささか反発も感じていたのでしょうか。だが、鳥彙道林和尚は半端な禅者ではなかったのです。和尚はすぐに応じた。
 「太守、あなたのほうが、もっと危険ですぞ!」
 木の上にいるわしを危険だと言うあなたは、自分自身の危険を忘れているのではないか。あなたのいる世界には、左遷・失脚・裏切り・寝返り・犠牲などがいっばいある。おまえさんたちは、そんな危険を忘れてのほほんとしておる。あなたのほうが、もっと危険ではないのか -- というわけです。
 白居易は返答できず、みごとに一本取られます。そこで、さらに問答を重ねます。
 「仏法の大意とはつまるところ何なのか?」

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 道林和尚「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをするな、善いことをせよ〕
これはいたって平凡な解答です。どこかのおじいちゃん、おばあちゃんでも言いそうな言葉です。偉い禅師の言葉とは思えぬ、そう思ったのでしょう。
 白居易は言う「そんなことは、三歳の童子でも知っていますよ」
 だが、鳥彙和尚は動ずることなく「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを実行することはむずかしいぞ!」と応じるのです。
 一切の悪いことをするな、善いことをせよということは簡単な教理ですが、簡単なことほど実行するのは難しいところがあります。分かることと、行うこととはまったく別なのです。禅はなによりも「行」を根本とします。この教えも、三歳の子供でもわかりそうなことでも、実際のところは八十の老人にしても実行することは難しいと説くのです。
 ところで、七仏通戒の偈は往々にして命令形に「諸の悪を作す(なす)莫れ、諸の善を奉行せよ」と読まれがちです。漢文はいろいろに読むことができるので、命令形に読むのをまちがいというのではありませんが、仏教的には他からの強制や禁止・命令によらず、自分から進んでする自由意志によるのを旨としますから、命令形に読み下すのは好ましくないのです。
 たとえば、最も古い経典の一つの「法句経」の183句に、
 ありとある悪を作さず
 ありとある善きことは
 身をもって行い
 おのれのこころをきよめん
 これ諸仏のみ教えなり
 仏教の善悪の教えとは、 「正しいこと」とは自他を活かし、共に喜ぶことであり、「悪いことと」とは自他を殺し、悲しませることです。
 同、法句経に「悪の報いは自分にはこないと、小さい悪事を軽くみてはいけない。水のしたたり落ちる一滴一滴の水が、やがて水瓶をいっぱいにするように、愚かなる人は、ついに悪を満たすなり」とあるように、善きことを思い、善きことをなせば、幸福は必ず実現する。反対に、一時はずる賢く要領のいい人間がはびころうと、因果の法則はくらますことはできないという教えは人生の鉄則といってもいいでしょう。
 道元禅師は七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)は菩提の語として悟りの境地を示したものであると「諸悪莫作の巻」で説かれています。
 つまり、悪いことはしまいと願い、悪いことはしないように心がけているうちに修行の功徳力があらわれて悪いことを行うことがないようになるというのですが、さらに、修行力が現成している人は、悪事をなしそうな場所にあったり、悪事をなしそうな機縁や悪事をなしそうな友と交際しているようであっても、悪事は自らなされなくなるものであると示されるのです。「悉(しつ)有仏性」の立場においての「止悪行善の戒」とは、道徳や倫理の善悪ではなく、自主自律的に守られるであろう誓願であり聖戒なのです。
                     長泉禅寺ホームページより

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