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「卑弥呼」ファン集まれー!!(7)  「播磨風土記」の解読

  「天の原 ふり放け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも 」

 古事記の「天照大御神」伝説は、日本人の素晴らしい「日本文化」ですよねー。 このページは、ちょっと知っとくっていう程度の話かなー❓❓❓❓   話の方向は、①何故そういうのか?地元の伝承。                  ②「播磨風土記」の解読                           ③魏志倭人伝の方向からの解読(新説)。                と三つの方向があります。                     ①②③のどの方向を希望されますか❓❓コラム欄から希望を伝えてネー。❓❓との質問の中での、①地元の伝承での説明は終わりました。よねー!!

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    次には、②播磨風土記の解読の方向に入りましょうかねー。

「播磨風土記」原本には「所以云邑曰野者 阿遲須伎高日古尼命神 在於新次社 造神宮於北野之時 意保和知苅廻爲院 故名邑曰野」
「おわちのというゆえんは あじすきたかひこねにみことかみ こののにいんのためかやをはりめぐらしてあたらしいみやをつくりすんだ ゆえにおわちのという」と墨字であるのです。                 「邑曰野」のところに小筆で「オワチノ」と振り仮名があり、新次社の造神の所に神崎郡新次神社とこれも小筆で書かれています。          「和知」の解説に至っては、③類聚国史天平12年10月伊勢国行幸遊傷手和遅野免當国今年租とあり、「和知」の解釈に拘り過ぎたところが見受けられる。

 古文書の原本となるべき記述に、これだけの誤った注釈がつけられれば、以後、誰も手出しのできない迷宮に入ってしまって、地元の実情を知る者以外にはこの学説は否定できない。

風土記;   著者: 武田祐吉 編;  出版者: 岩波書店;  出版年月日: 昭和12年

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 これが、谷森善臣先生から始まった「学説」として定着しているので、以後誰も手出しのできない、迷宮に入ってしまっているのですよねー。       参考にした「播磨風土記」の解読原本。

 寛政八年(一七九六年) 正二位 柳原(藤原)紀光(一七四六~一八〇〇年)三条西殿文庫

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この「播磨風土記」の冒頭では、大穴持命と少彦名命。「張浜の国」が播磨と記して、その範囲が記されている。大穴持命と少彦名命の巡行記。

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邑日野(オワチノ)じゃなく、日野邑(ひのむら)。後醍醐天皇御宇(1332年頃)「大山豪雨」により、日野邑(ひのむら)は跡形もなく流失。

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        「違うのです。」よねー。
否定の見解 
阿遲須伎高日古尼命神とは
 アジシキとはアジキ、すなわち「味」「食」美味しい食べ物、お米(稲作)を広めた太陽のような女神。ジキ(食)乞食(コジキ)。
② 邑曰野は、「オワチノ」ではない。                   邑菅原と書いて菅原村、邑曰野は日野村となる。
③ この地の福田集落には、姓「日野○○」という住人が多数居住している。
④播磨国風土記「神前郡」邑曰野について、柳田国男の兄井上通泰は「播磨国風土記新考」の中で、現代の豊富町にある「新次神社」ではないと述べています。於新次社は、神崎郡新次神社ではなく、この新次神社は(元はかつらぎ社)で明治期に改称された。(井上通泰 「播磨風土記親考」より)
⑤ 「此野」の字は、「播磨風土記」が書かれた時期には、和名抄で「槻田の里」ツキタノの訛り、キタノ、北野とかかれている。❓❓
⑥ 神崎郡福崎町西田原588番地に「宮田」と呼ばれる田があり、古図には、神社用地1坪と記され、柱の礎石(H80cm径5~60cm石の礎石)が最近まで残っていた。
⑦ この宮田から、伊和神社方向(西北西)には、神前堰・神前山がある。

「邑曰野」は、日野村と素直に読む「ヒノムラ」説が、理解されなければなにも始まらないのです。 

 「ひのむらというゆえんは あじすきたかひこねにみことかみ きたのにいんのためかやをはりめぐらして あたらしいみやをつくりすんだ ゆえにひのむらという」

「播磨風土記」原本、「阿遲須伎高日古尼命神」「此野」「新次社」だけではどうにもならなかったのです。
 手掛かりと言えば 国内鎮守大小明神社記 播磨國惣明神大小七十四社 神埼郡十二社の中の神棕明神(かみおみみょうじん)だけでした。
 棕櫚は、黄金色の染色の材料、迦毛大神、葦原志拳乎命(醜女)へと繋がり、文殊堂(現岩尾神社)文殊会祭礼絵馬の中に偶然六所宮の幟の表記があった。
 北野元宮(神崎郡福崎町西田原五百八八番地)文殊堂の北脇社、天神山南麓の六所宮の跡地、現天満宮の脇社「六所宮」、祭神「六縣主命神」でほぼ「阿遲須伎高日古尼命神」が「山の神」へと繋がりました。
 私が、平成25年3月に著した「北野と妙徳寺」の著書の中で、神積寺追儀式(鬼追い式)に出てくる「山の神」(写真)は、「阿遲須伎高日古尼命神」と比喩できていました。

奈具佐山 檜生 不知其由

豊暁の地、播磨風土記の「神前粒」「高岡里」、
「奈具佐山」「其の由 知らず」と記していますよねー。
「奈具」とは、「慰む」という意味。
真 奈 井
2・2・6(逸 文)「 風土記」 の井泉
(1)「 真 奈 井 〔(逸文)「 丹後国風土記 」(奈具社) (丹波 郡比治里)〕
 「此の里(丹波郡比治里)の比治山(現、峰山町鱒留の菱山)の頂に井あり。 其の名を真奈井と云ふ 。今既に沼と成れり」
 この「真奈井」に、天上から八人の天女が降って来て、水浴びをしてた。
 その時、和奈佐の老夫・老婦という老夫婦が、ひそかに天女一人の衣裳(天羽衣)を隠してしまった。 やがて衣裳のあるものは、皆天へ飛び帰ってしまったのに、衣裳のない一人の天女は、独り恥しがって水中に身を隠した。
 老女は天女に、「疑多く信なき率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」と答えて、その天女を家へ伴った。
 それ以来、天女は止むを得ず、老夫婦と共に住むこと十余年に及んだ。
「爰に、天女、善く酒を醸み為りき。一杯飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一杯の直の財は車に積みて送りき(天女の酒は「雲酒」として高価に売れたので、老夫婦を金持にするこができた)。 時に、其の家豊かに、土形富めりき(老夫婦の家が豊かに、塑潟(ひじかた)といわれた水に乏しい山地の特殊な農耕適地も豊沃になった)故、土形の里と云ひき(この地は後に比治の里といった)」ところが、実子ではないといって、老夫婦の家から追出された天女は、郷の人々に、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず(住むべき所を知らない)吾、何にせむ(どうしたらよいだろうか)」と言って、天を仰いで泣きながら歌った 。
   「天の原 ふり放け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも 」
(歌意)天の方を遙かに眺めやれば、霞がたちこめてよく見えない。 わが家へ帰る路に迷って、行くべき方向も分らない。
こうして、天女は村々を次から次へ放浪した。
  荒塩(中郡峰山町久次。式内社咋岡神社旧地)
  契木(同 郡同町内記。式内社名木神社がある。)
  奈具(竹野郡 弥栄町 船木。
    嘉吉年間(1441~1444)の洪水で部落流出し、村民離散と伝える。(遣蹟地は不明)奈具の村民たちに、天女は「此処にして、我が心なぐしくなりぬ」(奈具志とは平静で、和やかな意) といって、奈具の村に留まることになった。
「斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社(旧地は洪水で流失。今、船木にある式内社)に坐す豊宇賀能売命なり」
    豊宇賀能売命とは、伊勢の外宮に祀られている豊受神、いわば農耕神、殼神の豊受大神のことである。

    奈具佐山 播磨風土記では、「その由知らず」
「天の原 ふり放け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも 」
 田原には、眞奈井の鶴という酒が、鈴木酒店より醸造され販売されていた。奈具とは「慰める・奉玉」「疑多く信なき率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」その天女を家へ伴った。

 そうなんですよねー。「邑日野」は、後醍醐天皇御宇に流出してしまって「ない」のですよねー。そこが見えないとこうなりますよねー。      次回は、流出してしまった「邑日野」中村への説明に入りましょうかねー。

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