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9.古墳出現前後の祭祀

弥生時代中期初め頃に中国から渡来した徐福集団が日本の各地に上陸して神仙思想を広めました。各地の王は不老不死、不老長生にあこがれて自ら神仙になることを望んだものの、現実は誰もが死を迎えます。後継者となった次代の王は亡き先代王を仙界に送り出すため、徐福集団の後裔たち(=各地の物部)とともに神仙思想を取り入れた埋葬や葬送の儀礼を営みました。甕棺墓や土器棺墓、朱に彩られた棺、壺形土器の供献、鳥形木製品の副葬などです。弥生時代後期から終末期になると大きな墳墓を築くようになり、仙界を描いた神獣鏡を副葬し、さらには墳墓の形は仙界を表す壺形になっていきます。

考古学者の福永伸哉氏は、初期の前方後円墳で鏡の多量副葬が始まり、とくに前期の畿内を中心とする有力古墳においては鏡が遺体を取り囲むように配置される方式(身体包囲型配置)が見られ、地域の有力古墳でも足下と頭側に置き分ける方式(頭足分離型配置)が認められるとして、東晋の葛洪が著した神仙術の書『抱朴子』にある「明鏡の九寸以上なるを用ひて自ら照し、思存する所有ること七日七夕なれば、則ち神仙を見るべく(中略)。明鏡は或は一つを用ひ、或は二つを用ふ。之を日月鏡と謂ふ。或は四つを用ひて之を四規と謂ふ。四規なれば之を照らす時、前後左右に各一を施すなり。(後略)」の文を引いて神仙思想の影響を指摘しています。また同時に、棺内への水銀朱の多量使用や神仙世界をモチーフとした神獣鏡の採用も同様に中国思想の影響とします。

遺体が埋葬された墳墓で行われた祭祀について、古屋紀之氏の「古墳出現前後の葬送祭祀」をもとに見ておきたいと思います。古屋氏は、北部九州、山陰・三次盆地、吉備、四国北東部(阿波・讃岐)、近畿地方北部(丹後)の5つの地域において、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓の様相と土器配置についての分析をもとに葬送祭祀を考察しています。なお、ここでは氏が庄内式併行期とする時代を弥生終末期、布留式併行期を古墳時代出現期、古墳時代前期前半中相を前期中頃、新相を前期後半と読み替えることとします。

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