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「イエス」と言って生きていたい

 公開から少し時間が経って、30スキか、15スキに落ち着いた記事には、300スキと150スキを比較検討するくらい分析の余地があると思っている。

 それぞれの記事で、なんとなく心に置いていたことには自覚がある。

 健闘した記事を書いている時の自分は、鬼滅の刃で例えると「竈門炭治郎」的だった。がんばれ、がんばれ、自分負けるな。こんな大変なこと、次女だから乗り越えられたけど、三女だったらきっと挫けてたはずだ──。みたいな気持ちで書いた記事は、他の人の心を少しは動かすことができた気がしてる。

 対して、読んではもらえたけど、ちょっと勢いに欠けるなあ、と思う記事は、「我妻善逸」的だったと言える。弱さを醸し出してみた。

 これは、「どんな記事がnoteで受け(入れられ)るか」という話ではなくて、「私がどんな記事を書くのが似合っているか」ということだと思う。

 弱くて、トホホなところ、暗部をさらけ出している記事にパワーを持たせることが、私は不得意なんだろう。かわりに「閉ざされたドアの向こうに、新しい明日が待ってるぜ! 高ければ高い壁のほうが、登った時キモチイイもんな!?」みたいなことは、普段から考えているだけに、人にも胸を張って言い切れるんだと思う。

 このガッツはどこからくるんだろう?

人の決心にイエスと言えるか

 社会人生活に慣れ、生涯追いかけたいテーマが見つかった時、そのアウトプットをどうするかは2018年あたりから考えていた。これがなかなか定まらないくせに情熱だけはあったので、周りの人たちも遠巻きだった気がする。

 覚悟はあった。熱意もあった。方向性だけが違った。この三つは揃えようとおもって揃えられるものではない。「そんなの作って、誰得?」って言ってきた友達もいた。ブチギレた。反省した。全員が全員、私のような人ではない。当時企画していたものは流れてしまったけれど、いろんな人に話を聞いてみたりして、その時なりに真剣に作っていた。それでもものにはならなかった。

 そんななか、「◯◯を作ってる」と言ったら真っ先に「いいね!」と言ってくれた人がいた。

 「だって、それを作っている時は楽しくて仕方ないってことでしょ? すばらしいじゃない!」彼女は帰国子女だったのでそもそもリアクションが大きかった。

 「何かをやろうとすると、真っ先に“No”と言う人がいるけど、わたしは“Yes”って言える人でいたいの」

 彼女とは具体的な協力関係になったわけではないけれど、彼女のようにエネルギーを発散させながら歩いている人がいるというだけで、励まされたものだった。

 それからも私はいろんなことに挑戦し、諦めたり忘れ去ったりしている。ウェブアプリ開発に絵、漫画、会社でのリーダーシップ、キャリア形成。恋愛を頑張ってた時期があった気もする。

 目の前に来たものを、文字通り死の一歩手前まで頑張った(恋愛に関してはその気迫が怖がられたのかもしれない)。それでも、人が「こうなったら成功」と言われるものを何一つ手に入れていない。いやむしろ、「こうなったら成功と言われているもの」は、おそらくまやかしだったとおもう。いっそ手に入らなくてよかった。手に入ったとしても、私の手におえるものではなかっただろう。そういったもろもろからの解放というか自由こそ、本当に手に入れるべきものだったかもしれない。

 何かに挑戦したいと言う人が途切れることはない。私はどんな人にも「やってみたらいいっしょ」と言う。それも全肯定で。コンピュータ社会がどんなに発達しようと、人が行動を起こす価値は何も変わらないはずだ。いや、他ならぬ私が、人が行動を起こす価値を絶やさないために、挑戦に重きを置いているのだろう。生きる価値の番人だ。

「そんなんじゃ生きていけない」と言う人が現れたときは

 私は基本的にはガッツがあり、のびのびした人間だが、「そんな心構えや生き方は通用しない」と言われるのが怖かった時期が相当長かった。

 今はそういう人が万が一現れた場合、どうすればいいのか知っている。戦ってはいけない。さっさと逃げましょう。



 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるため、作品を作り続けるための全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。
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