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眠れない夜の癒し系恋愛小説「また明日」蒼井氷見 #超短編

「それでは、商品が届き次第、ご連絡いたしますので」
大きな唇をした店員が、あかるい声で葉月に伝票を手渡した。

買ってしまった。
入荷待ちの、憧れの旅行鞄。

店を出て、ライトアップされたショーウィンドウを振り返り、溜息をつく。仕事のストレス発散という大義名分のもとに、今まで幾らの散財をしてきただろう。あの有名デザイナーは、自分のような日本人の小娘が、こんな諦め半分の気持ちで鞄を手にすることを、果たして望んでいるだろうか。

都会からベッドタウンへ。葉月は乗り慣れた路線に乗り、帰路へと向かう。
普通電車は停まるたびに、車内の乗客が目に見えて減っていく。やや押し出されるかたちでドア付近にやってくると、面倒な葉月はそのまま手すりに掴まり自分のスペースを確保した。ほどなくして電車は次のホームへと滑り込む。
扉が開き、葉月はいったん外に出た。降車する人の波が去り、ふたたび同じ場所に戻ろうとすると、葉月とは逆側の戸袋に、寄り掛かる1人の男の子と目が合った。


「帰り、遅いんですね」
走り出してからしばらくたって、空いた車内であきらかに葉月の顔を見て彼が言った。
 世代らしい流行りの服を着た背の高い男の子。知り合いにしては自分より随分若いような気がする。でも実は同級生? 仕事関係の人? 困ったことに、名前をまったく思い出せないくせに、確かにどこかで見た覚えがある。

男の子が、あれっと口のなかでつぶやく。
「わかンないスか?」
朝、○○駅で…そこまで説明されたころで、葉月はようやく思い当たる。


朝の通勤電車は無言の座席(シート)争奪戦だ。彼は毎朝、葉月が乗車してから5つ目の駅で降りる男の子。葉月は毎朝、そのシートを狙って乗車していた。

「いつも、すみません」
葉月は頭を下げる。いいえ、と彼。彼の手のなかにあるクリアケースを目に留め、学生さんですかと訊いてみる。彼が頷く。
「いま大学3年です」
6コも下か…。若いなあ、と、葉月は無意識に息を吐く。

「あ、今、密かに恋愛対象から外したでしょ」
いたずらっぽい顔で、彼が笑った。

あの時間に毎日大学へ通ってるのと、葉月は訊ねてみる。だとしたら(見かけによらず)ずいぶん真面目な学生だ。
「バイトがあるんで」
彼は答えた。バイトばっかで彼女もできないですよ。冗談半分にぼやく彼の言葉を、葉月は頬に沁みついた社交辞令の笑顔で聞き流す。電車が葉月の降車駅に着いた。

「じゃあ-…また明日」
彼が言った。葉月は一瞬戸惑ったが、無性に可笑しくなりつい答えてしまった。

「また明日」
軽い会釈をして電車を降りた。

翌朝。いつもの車両、いつものシートの前に、葉月はヒール姿で立ち、目の前のつり革に手を伸ばす。そこにいつものように、端の席で両耳にヘッドホンを当て音楽を聴きながら、眠っている彼の姿があった。葉月が乗車してから5つ目の駅で降りる男の子。いつもの朝といつもの風景。しかしひとつだけ、昨日までとは違うことがある。葉月は彼がこれから、アルバイトへ行くことを知っている。

5つ目の駅できちんと目を覚ました彼が空けたシートに、葉月は身を沈めた。発車前、ふと気配を感じて振り返ると、窓の外で、歩き出す彼が白色のクリアケースを軽く振ってみせた。

―また明日。

クリアケースが、葉月にそう告げているように思えた。

―また明日。

葉月はほんの小さく、窓越しに手を挙げ返す。

走り出す車両のなかで、葉月はいつものようにイヤホンの音量を上げた。脳裏ではいつまでも、彼のクリアケースが、また明日と笑っている。葉月は自分がいつの間にか微笑んでいることに気づいた。

人生は旅だと最初に言ったのは誰だったろう。鞄に荷物を詰めて出かける旅でなくとも、出会いは生まれ、心の変化は訪れる。

いつもとは少しだけ違う朝が、始まった。(了)

(蒼井氷見「また明日」)

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