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眠れない夜の癒し系恋愛小説「桜」蒼井氷見 #短編

最近、天気予報が当たらない。使いあぐねた傘が、街を歩くのに邪魔をする。
けれど今夜は、そんな人たちを、割と多く見かけるのでほっとする。

この4月で入社5年目を迎えた真昼と里香は、新宿御苑にほど近いそばの出版社の1階で受付業務をしている。金曜の夜。心地好いディナーの後、2人は、行きつけの西麻布のクラブが活気づくまでの半端な時間をもて余しながら、桜並木をガードレール沿いにしばらく歩いた。緩く生温かい、春の夜風が辺りに漂う。モンスーンカフェには、それほど待たずに入れた。

店の奥に座り、2人は、コーヒーと、春巻きを二本、注文する。
そばの席には、学生のようなカップルが数組いた。彼女たちは、たまたま女二人のアフターファイブ、といった風情で、店の風景に溶け込んでいた。賑やかな店内で2人は、欲しい洋服のことや、映画の話、店の内装のことなどを、とりとめもなく話した。
里香と真昼は、時折、双子?と聞かれるくらい、背格好が似ていた。髪型や化粧のしかた、好みのブランドまでもが似ているせいで、余計に同じような風貌になるのかもしれなかった。テーブルの端に立てかけた二人の傘は、偶然にも同じブランドの色違いだ。入社してしばらくたった頃、真昼のほうが髪を切ってからというもの、似ているといわれる機会は減った。性格と、幸い、男性のタイプはお互い違っていた。

お代わりのコーヒーを啜りながら、あかるい巻髪を揺らして里香が言う。         
「1度でいいから、『ずっと好きだった』とか言われてみたいよね」
里香の会話が唐突に始まるのはいつものことだった。慣れた仕草で、真昼は頷く。
「しかも、いい男に、でしょ?」
真昼が、いたずらっぽい笑みを浮かべて里香を見ると、里香は、よくおわかりで、と笑った。
「だって、いくら褒められても口説かれても、好きな人に好きだって言われるのでなきゃ、なんの意味もないもの」
モテる里香が言うので余計に説得力がある。真昼は頷いた。
「好きな人とだったら、何かひとこと会話しただけで、一日中舞い上がれるのにね」
真昼の本音に、里香が心から同意する。
「―そうそう」

ふいに店の扉が開いて、スーツ姿の男性が1人、店に飛び込んできた。ざぁっ、と、扉から漏れる激しい雨音に、2人は振り返る。少しだけ険しい表情で入ってきた彼の手には、折り畳んだばかりの濃紺色の傘が握られていた。傘はびしょ濡れで、ところどころに桜の花びらがくっついていた。

「降ってきたみたいね」
里香がつぶやいた。七分の袖から伸びる腕が少し冷えたようで、右の手首を左の掌でさするような仕草を見せた。

-ちょっと「彼」っぽかったな。

待ち合わせの相手らしき女性の席に近寄る、見知らぬ男性の姿を見送りながら、真昼はため息をついた。

真昼が、別フロアに勤める「彼」に片思いをして、3年目になる。「彼」はおそらく、真昼よりも年が下だ。真昼のいる受付の前を毎朝通るが、会話をしたことはない。それでも時折目が合ってしまうのは、真昼が彼を見つめてしまうせいに違いなかった。こんなとき、明るく、何事にも積極的な性格の里香を、羨ましいと真昼は思う。里香だったら、「彼」が入社してきた一昨年の四月に、桜が散るよりも早く彼に声をかけ、とっくに答えを導き出している筈だからだ。
4月に入り、また今年も、真新しいスーツに身を包んだ新入社員たちが、慣れた朝の空気のなかに真新しい風景を作りはじめていた。ほどよく手入れされた髪と爪とをした女の子たちが数名入社するたびに、真昼は、「彼」の視線を気にせずにはいられなかった。けれど真昼が見るかぎり、「彼」の態度は変わらない。同僚たちとビルのエレベーターを下りながら交わす会話も、仕事のことに終始していた。

「こんど話しかけてみようか」

また唐突に、里香が言った。けれどそれが、「彼」という主語を省いても、真昼には理解できた。

「…何て?」

真昼は眉を寄せる。里香は笑っていた。

「おはようございます、って」

すこし間をあけて、人は声をたてて笑った。笑いながら里香は続ける。こんど2人で言ってみようよ、と。

そんな簡単なことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
真昼は急に、身体が軽くなったような気がした。

店の外に出ると、雨は止んでいた。
濡れたアスファルトの上を、買ったばかりのヒールの踵を鳴らして歩きながら真昼は、さっきよりも薄橙色の傘を邪魔に感じないことに気づいた。(了)

(蒼井氷見「桜」2006年)




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