見出し画像

幽霊作家⑧

「『zmzgzsz svmhbf』です。私が本物だって言う事を示す、暗号みたいなものですから、一応打っておいてください」

「別にいいけど、相手にそれは伝わるの?」

「もちろん。メールでしかやり取りしませんから、本人確認を兼ねて暗号は度々送るんですよ」

 解き方はお互いしか知らないとなれば、十分セキュリティになるのかもしれないけれど、ちょっとやりすぎにも見える。だが、ゆめさんは自宅の合鍵で脱出ゲームをさせる人間なのだから、有り得ないとも言い切れない。

 暗号の内容も分かっているし、これ以上掘り下げる必要も無いか。

「今さらと言うか、考えれば当たり前だとは思うんだけど」

「改まってどうしたんですか?」

「ゆめさんは驚いていたけど、普通作家が事故にあったら、出版社は気が付くと思うんだよね。契約しているだろうし」

「契約は通称名、いわゆるペンネームで行っているんですよ。調べてみたら分かると思いますが、法律的にも問題ないですからね。

 やり取りもメールや書面だけで、顔も合わせていないです」

 ペンネームで契約できると言うのは初耳だけれど、話が本当であるならば出版社が把握していない事も、ゆめさんの死が全く騒がれていない事も頷ける。

 地方に属するこの町なら、都会にある出版社の人と、面識がない事もあるのだろう。

「だとしたら、口座の名義じゃないかな? 本名で作ったんじゃない?」

「作った時に意識していなかったから、忘れていました」

「で、口座で思い出したんだけど、お金をとりあえず受け取るのはいいんだけど、僕には通称名なんてないし、どうやって受け取ったらいいの?」

 正しくは、こちらが気になったから、名義を思いついたのだけれど。

 新しく作ったところで、出来るのは僕名義の口座だから、少なからず出版社側に違和感を抱かせると思う。

 ゆめさんが口座を失念していた所を見ると、対策はないのではないだろうか。しかし、ゆめさんは「大丈夫ですよ」と笑った。

「昨日パソコンを入れてもらった手提げを、持っていてもらっていいですか?」

 言わるままに、部屋の隅に立てかけている手提げを持ってくる。

 小さい方のパソコンが入ったままで、わずかに重さを感じた。

「その手提げの中に、ポケットがあるので、中身を取り出してください」

 確かに生地の裏側に、縫い付けたようにポケットがあり、中には長方形の小さなノートのようなものが入っていた。

「通帳、だよね」

「はい。私の通帳です」

「流石に通帳を持って来たら、警察が動くんじゃない?」

「その通帳には現状、お金が入っていないので大丈夫ですよ。私の全財産は別の複数の通帳に入っています」

 ここにゆめさんの通帳がある事が、問題になる事がないのは分かったけれど、この通帳もいずれは凍結するのではなかろうか。

「それから、口座を凍結させるためには、遺族が金機関に伝えないといけないんです」

 得意げな顔のゆめさんに対して、感心したように頷く。

「家族でこの通帳を知っている人は居ないから、大丈夫だと?」

「はい。これさえ手元にあれば、不審なお金の動きを見られることも無いわけです。

 今まではお金が入ってすぐに全額おろしていたので、もしかしたら銀行側は疑問に思うかも知れないですけど、何千万と動くわけではないですからね」

 作家がどれくらい儲けられるのかは、僕にはわからないけれど、いちいち銀行側が気にしないと言うのは同意する。

 何気なく手にした通帳に目を落とそうと思ったら、ゆめさんが「待ってください」と慌てて遮った。

「どうしたの?」

「えっと、今さら本名を知られるのは、恥ずかしいかな……と」

 照れたように顔をそむける姿を見て、気持ちは分からなくもないかと、視界に入れる事無く通帳を手提げに戻した。ゆめさんは意外そうな顔をして、「ありがとうございます」とお礼を言う。

「これからなんだけど、返信が来るまで待っていた方が良いのかな?」

「いつ返信が来るかはわかりませんから、別の事をしていましょう。

 今日中に返信は来ると思いますが、明日までに返せば大丈夫ですから」

 向こうとしては、今か今かと待ちわびていたと思うのだけれど、ゆめさんの判断ならば、僕からいうことはない。

 ただ、別の事と言われても、こちらは積極的にやりたいことはないので、早めに確認しておいた方が良いだろうと思い「試しに、ちゃんと執筆できるかやってみる?」と提案する。

 ゆめさんは、苦虫を噛み潰したような顔をして、「まだ時間もあるし、焦らなくて大丈夫ですよ」と目を逸らした。

「今までと勝手が違うはずだから、切羽詰る前に試しにやってみた方が良いと思うんだよね。もしかしたら、ゆめさんが一日でやっていた事を、僕を挟むことで一週間かかるようになるかもしれないし」

 これまでは、ゆめさんがキーボードを打つと言う動作だけで済んでいた。

 しかし今後は、ゆめさんが僕に伝える、僕が入力するの二段階になるうえに、僕はゆめさんのほどタイピングは出来ないだろう。加えて、見返した時の誤字の量も増えるだろうから、よりゆめさんの仕事は増える。

 何よりも、今まで感覚でやって来た事を、いちいち指示するのは、それだけでストレスだろう。

 逆に一度やってしまえば、どれくらい時間がかかるかを掴めるだろうから、今後の予定も立てやすい。

 きっと断られるんだろうなと思っていたら、案の定話しにくそうな顔をしたゆめさんが「やっぱり今度でいいですよ」と断った。

#小説 #創作 #1話目 #オリジナル #ミステリ風

――――――――――

(作者別作品宣伝)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?