幽霊作家⑦
学生や会社員だった頃の癖か、仕事がなくなった今でも、朝は六時よりも前に起きる。
遅刻しないために、四時起きだった時期もあるので、良く寝たとすら感じる。
起き上がり、布団を片付けて、朝食を作っている時に玄関からゆめさんが現れた。
「もう起きていたんですね」
「習慣みたいなものだから。何処か、面白い家はあった?」
「ありましたよ。さっきまでテレビを見ていました。詳しく話しますか?」
「別にいいかな」
「じゃあ勝手に話します」
味噌汁を作る後ろで、ゆめさんが話し出す。隣の住人が何をしているのか、同じアパートに住む人間として、全く興味がないわけではないけれど、覗こうとは思わない。
ゆめさんが勝手に話す分には、能動的に覗いたり盗聴したりするわけではないから許せる。
自分でも線引きがはっきりしない基準だけれど、もとより僕は善人でも聖人でもないのだ。
だから、ゆめさんが他の部屋を覗きに行くのを、咎めるつもりもない。
「とは言っても、一晩アニメを見ている人や、パソコンで動画を見ている人が居たくらいですけどね。あとは人の頭がい骨を飾っている人がいました」
味噌汁を作り終え、器に移した所で、ゆめさんの話に区切りが付いたので「そうなんだ」と返事をする。
素っ気ない対応が気に入らなかったのか、一瞬顔をムスッとさせて、妙案を思いついたかのようにほくそ笑んだ。
「隣の女の人、男連れ込んで楽しそうにしていましたよ」
「へえ、隣って女の人だったんだ」
朝食の準備が済み、手を合わせる。一人分の料理を並べただけでいっぱいになるテーブルの向こう、ゆめさんが面白く無さそうに頬杖をついている――つけてはいないのだろうけれど。
「お隣さんの事知らなかったんですか?」
「会った時に挨拶くらいはするから、全く知らないって事も無かったけどね。
あと、夜中に男の人と一緒に居る声が聞こえるから、連れ込んでいるのは知ってた」
「だったら、さっき何であんな反応したんです?」
「料理中だったから」
短大でバイトに手を出した時、注意力が散漫になりオーブンで左手を大やけどした経験があるため、料理中は特に集中することにしている。重要な話ならば手を止めるし、雑談しながら作業できなくもないけれど。
左手に真一文字に出来た火傷跡を一瞥して、食事を続けた。
ゆめさんは、僕が食器を片付けるまで、閉口していた。
「もう話しかけても大丈夫ですか?」
「別に気にしなくて良かったのに。って言うのはフェアじゃないかな」
「フェアって何ですか? 私が勝手に話し始めたから、適当に返していたんですよね?」
「それもあるけど、さっきも言ったけど料理中だったからね」
言った後で左手の甲を見せる。ゆめさんは二度瞬きをしてから、「何があったんですか?」と尋ねる。
「学生時代のバイトで、火の入ったオーブンでやっちゃってね。
僕の不注意だったんだけど、以降出来るだけ片手間で料理をしないようにはしているんだよ」
「バイトでって事は、業務用の大きなオーブンですよね。大丈夫だったんですか?」
「当時はお風呂入るのも一苦労って感じだったけど、怪我を気にしている余裕はなかったかな」
「意識するようになって、怪我はしなくなったんですか?」
「減ったような、減らなかったような、って感じ。この後ほどなく辞めたって言うのもあるんだけど」
返す言葉が無かったのか、話を区切るつもりだったのか、はたまた意趣返しのつもりか、ゆめさんは「そうなんですね」と素っ気ない返事をする。
「今日は何をするんですか?」
「ゆめさんの用事を済ませるのが最初かな。編集さんに連絡するんだよね」
「良いんですか? 私の事を優先させて」
「じゃあ、死に場所でも一緒に探してくれる?」
「そう言えば、萩原さんって死にたい人でしたね。
自殺志願者のイメージと、だいぶかけ離れていたので、忘れていました」
ゆめさん自身が、死のうとしている人を、探していたんじゃなかっただろうか。
イメージと違うというところに関しては、自覚しているけれど。
テーブルの上にゆめさんのノートパソコンを置いて、「どうしたらいいの?」と指示を待つ。テーブルの向かいにいたゆめさんは、僕の隣まで飛んできてから、「とりあえず、立ち上げてください」とパソコンを指さした。
言われるままに電源を入れて、パスワードを要求されたので162018942と入力後、インターネットに繋げる。興味本位に数字の意味を訊いたけれど、偶々目に入った数字を使っただけだと返って来た。
連絡用のパソコンと言うだけあって、デスクトップ画面にアイコンは殆どなく、次に指さしたメールのアイコンもすぐに見つかった。
デフォルトで受信ボックスを表示する設定だったので、ここ最近メールを送って来た人の名前と時間くらいは分かるのだけれど、同じ人とばかり連絡を取っていて、この人が編集なのだと分かる。
気になる事があるとすれば、相手の名前が人の名前でも、役職でもなく、『N・U』とイニシャルっぽいところか。イニシャルで問題があるわけでもないし、もしかすると編集を現す何かの可能性もあるけれど。
よく見ればここ数通は未読になっていて、一番最近のだと二日前のメール。ゆめさんに言われて一番上の『生存確認』と言うタイトルのメールを開いた。
開いた瞬間、スッとゆめさんが僕の前に出て来て視界を隠したのだけれど、一通りの読んだ後は横にずれた。
視界に戻って来たメールには短く『生きているなら連絡をください。これで最後のメールにして、三日以内に連絡がなければ、こちらの認識で正しいと判断します』と書かれている。
「もしかして、ギリギリだった? というか、事故にあったのがゆめさんだとバレてるよね」
「何でバレたのかは置いておいて、たぶん期限に間に合わなくても、このパソコンから連絡したら大丈夫だと思いますよ。
でも、話はややこしくなりそうなので、早く返信してしまいましょうか。操作お願いしていいですか?」
マウスを操作して、返信画面を表示させたのを確認して、ゆめさんが文面を言葉にする。
「『返信遅くなってしまい、申し訳ありません。先日の事故は私とは無関係ですので、ご安心ください。
私的な事になりますが、』」
「ちょっといいかな」
「『引っ越しをしないといけない』……どうしたんですか? ちゃんと打てていますよ?」
割り込んだ僕に、ゆめさんは不思議そうな顔で画面を見た。
タイプミスや聞き取れなかったと言う事はないのだけれど、言葉では伝わりにくい所もある。
「句読点はどうしたらいいの?」
「あとから私が確認はしますが、萩原さんの判断でお願いします。
改行に関しても同様でお願いします。では、続きを言いますね。
『引っ越しをしないといけない状況になり、現在も立て込んでいる状況です。
今後も、連絡が取りにくい状況が続くかと思いますが、落ち着いたら今まで通り行けますのでどうぞよろしくお願いいたします』でお願います」
「素人考えで悪いんだけど、締め切りとか大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。締め切りまで二週間ありませんが、十分間に合うようには進めていますから」
今まで通り執筆は出来ないから、時間を貰った方が良いんじゃないかと思ったけれど、この様子では言っても意味無いかもしれない。
「本文の最後に『zmzgzsz svmhbf』って打ってもらっていいですか?」
無用な諍いを生むかもしれないと黙っていたら、思い出したようにゆめさんが付け加える。しかし、耳慣れない文字列に「何て言った?」と尋ね返した。
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