見出し画像

2018年8月6日〜10日 生きて羊を食べる

2018年8月6日 樹海VS フリースタイルラップ

 樹海にいる。数時間前まで岩手県の喫茶店で祖父母と早めの夕食にピラフなどつついていたのに、それはもういまはっきりと富士の樹海にいる。

 話は戻るけど、私は祖父母にとって何点くらいの孫なんだろう。もちろん祖父母にとって孫が点数など付けようのない存在であることはわかっている。そのうえで、そういうことを考えてしまう私は何点なのか、ということだ。

 樹海に行くと知った祖母は私に、小さなパッケージに入れた粗塩を手渡した。ひとつは身につけておくために、もうひとつは撒くために。

 東京行きの新幹線に乗る数十分前、久しぶりにメイクをしていたら、祖母が「お弁当代」とだけ言って一万円札を鏡の前に置いた。いや、いいよなんで、と言う私に祖母は「どこさも連れてかなかったから」と洗濯物を抱えて二階のベランダへ上がっていった。こちらに背中を向けたまま「私、行かねっからね」と言う。見送りに行かないという意味だ。階段をのぼるスリッパのパタンッパタンッという音が響いて、ベランダから差し込む光の中に祖母の背中が吸い込まれていく。

 あれはいくつの時だったか、私が新幹線のホームで岩手に住むと泣き出したことがある。あの年、私は祖母に教えてもらったあやとりが面白くて、四六時中あとをつけては次の展開を聞き出そうとしていた。

 珍しく東京に遊びに来た祖父母を最寄り駅まで見送りに行った改札で、家まで一緒に行くと言い出して聞かなかったこともあった。

 子どもの頃はいまよりずっと感情の収拾がつかなくて、突然動き出した自分の気持ちに驚くことがよくあった。自分が帰る時も、祖父母に帰られる時も、最初はまだ一緒にいたいなあとかふざけているだけなんだけど、次第に離れたくない気持ちがのっぴきならなくなってきて、別れの瞬間に泣いているのが、悲しいからなのか、のっぴきならなくなってしまった感情に驚いているからなのかわからない、というようなことが度々あった。それである頃から祖母は見送りに来なくなった。

 もう私は泣いたりしないんだけど(嘘、正確には成人してから一度だけ仕事が忙し過ぎて東京に帰りたくないと泣いたことがある。笑)、それからずっと新幹線のホームで見送るのは祖父の役目だ(だからその時は大いにうろたえていた)。

 じゃあ私がいまでもべったりと甘える愛想のいい孫かというと、残念ながらそうではない。特に祖父といる時の私は口数が少な過ぎるし、ほとんど会話のキャッチボールもできていない。「(地図を見ながら)ほら、小さい時に連れてったところだぞ」「おー(地図が読めない)」とか、「あんまり仕事無理するなよ」「いい人ばっかりだし、そんなに辛くないよ」「そうか……?」とかそんな感じだ。

 自分で言うのもなんだけど、私は割と愛想がいいほうだ。別に無理しているつもりはないんだけど、祖父母といる時はそれが一切できない。ほとんど声をあげて笑うこともない。というか、それは両親といる時もあまりない。なんだかんだ言っても根が暗いのと、家族関係にすっかり安心しているからだろう。私が笑顔でいなくても愛してくれる。そして笑顔でいなくても愛していることをわかってくれている、と勝手に思い込んでいる。

 愛情の上にそうやって胡坐をかいている私は何点なのか、という話だ。

 新幹線のドアが閉まる直前、「楽しかったか?」と絶対に聞かれる。うん、とだけ答える。ありがとう、とも言う。どうしてかすごく申し訳ないような、やりきれない気持ちになる。ドアが閉まって祖父が小さな窓越しになる。ぎゅっと口角を上げて右手を振る。しばらく会えない祖父の、とうぶん最後になる記憶の中の私が、楽しそうに笑っているように。

 本当に楽しかった。正直また、帰りたくないとも思った。でもたくさんは笑えなかった。どうせ離れてしまうんだから、もっといい点数の孫でいたらよかったと思う。窓越しの祖父が田園風景に変わって、少しだけ泣いた。

ここから先は

9,519字 / 2画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?