屋久島のこと

屋久島には二度、行っている。
一度目は、10年以上前のことだ。
友人グループでフランス旅行をしようと計画を立てていた。
凱旋門、ヴェルサイユ宮殿、ルーヴル美術館、モンサンミッシェル。当時行こうと計画していた場所は、今でも憧れのまま。
予算と休暇を用意していたにも関わらず、旅行を取りやめたのは当時流行り始めた「新型インフルエンザ」の影響である。
海外渡航の自粛が叫ばれ、万一を考えてわたし達は海外旅行の計画を白紙にした。
今の「コロナ」のように、国内旅行を自粛せよという動きは、不思議なことになかった。それで国内で新たな旅先を探した結果、行先は屋久島に決まった。屋久島について何も知らなかったが、国内でありながら海を越え、旅行するには時間もお金もかかるイメージがあった。海外旅行の代替にはふさわしいと思えた。
グループの中で屋久島という地名を最初に挙げたのが誰だったのか、今となってはわからない。わたしは屋久島と小笠原の違いがわかっておらず、東京都に属するのだと思っていたし、同行者Mはなぜか新潟だと主張していた。
正解は、もちろん鹿児島である。

屋久島へのアクセスは、高速船「トッピー」を使った。
船旅は殆どしたことがなかったのだが、今思えば船を使って正解だった。
波を切り裂くように勢いよく進む高速船の窓から屋久島を見た光景が、今でも忘れられない。
「大きな山が、海から突き出ている」
そう思ったのをはっきりと覚えている。
そう、島は決して「海に浮かぶ」ものではなく、海から突き出た地形そのものであり、多かれ少なかれ隆起しているものだ。海面から露出した部分が土に覆われ、太陽と水と風によって植物が育つ。地形の中で平らなところを選んで、人間が住みついて暮らしを営む。
海なし県の真っ平らな地域に生まれ育ったわたしは、そんなことを考えたこともなかった。

20代半ばの女ばかり5人での旅だった。
3泊の行程の中で、「もののけ姫の森」と呼ばれる白谷雲水峡に行った。慣れた人ならさほど険しくもない山だが、体力がないわたしにはじゅうぶんな運動だった。
買ったばかりのカリマーのザックを背負い、トレッキングシューズをはいて、ガイドさんについてもらって登った。
生態系や植物について一通りの説明を受け、お決まりの場所で写真を撮り、お弁当やおやつの美味しさをかみしめるようなトレッキングだった。
もしあの場所に一人で足を踏み入れ、周りに他の客もおらず、自分のペースで、自分の感性で歩き回ったとしたら、まったく違うものを感じただろうと思う。おそらくは、恐怖。あるいは畏怖。孤独かもしれないし、無力感かもしれない。深い感動もあったことだろう。
あの時は、ワイワイと楽しみながら、写真を撮り合いながら、励まし合いながら、楽しく登った。
太鼓岩へあがる最後の登山道はラストスパートといえる険しさで、はっきりいって音を上げた。
友人たちに励まされてなんとか足を上げ続け、ようやくわたしは太鼓岩に立った。
そこにあったのは、風だった。
何もない広い空、吹きぬける風。飛べそうな空間があるだけの心許ない、そして限りない場所だった。
数枚の写真を撮ったが、その中に映るわたしは心底疲れたような、満足したような表情をしている。
そこからの下りは、幾分楽だった。特別にガイドがあるわけでもなく、足元を選びながらただ下りながら、山を感じた。
日頃登山をするわけではないので、鬱蒼として陽の光もろくに届かないその山道が屋久島特有のものなのか、それとも大体どこの山もそんなものなのか、わたしにはわからない。
でもその時、わたしの周りを取り囲む緑という色の濃さとその上から注ぐ木漏れ日の鮮やかさを強く感じた。屋久島という場所がなにかを語りかけているように思った。
わたしの初めての登山は、心地好い疲れの思い出である。

翌日、縄文杉登山を頑張りたいグループと、もう頑張れないグループに分かれて行動した。
わたしは後者である。
島をぐるりと一周する道があり、レンタカーでそこを走りつつ、気になった場所で下車するという気ままなプラン。
海を眺め、お昼を食べ、買い物もし、川を眺め、猿を眺めた。
車窓の右手には、常に海。途中には学校や病院もある。
それらを眺めてハンドルを握り、ただ一本道を走っていただけなのに、気づけば夕方にはスタート地点に戻っていた。
島は海に囲まれているのだと、今更ながら実感した瞬間だった。

そして最終日。飛行機で帰るつもりだったのだが、天気が荒れた。
恐ろしいほどの大粒の雨が、すごい音をたてて空から落ちてくる。
屋久島は雨が多いと聞いてはいたが、半端な雨ではなかった。ものすごい迫力と勢いだった。
「飛行機が飛ばない、どうしよう」
と焦りながらも、あまりの雨のすごさに感動すらしていた。
白谷雲水峡のあの濃い、生きた緑を育むのはこの雨だったんだ。
雨がどんどん海に注ぎ、そしてまた降る。
その循環を、島はさいごにわたしに見せてくれた。まるでショーのようだ、とすら思った。
もしかしたらその雨は、わたし達を試したのかもしれない。
島を離れるのを諦めて滞在してしまいたい気持ちもあった。でも、翌日からの仕事を選んだ。
「どうしても、帰って明日は仕事に行かなくては」
休暇は終わったのだ。
飛ばない飛行機の代わりに、手配し直した「トッピー」でわたしは屋久島を後にした。

その後、わたしは「島」が気になって仕方なくなった。
日本には大小さまざま、無数の島が存在するが、同じ島はもちろんない。
島の規模も、自然も、産業も、くらしも、島の数だけ存在するのだと気づいたら、行ってみたくてたまらなくなった。
それからは、友人とふたりで、もしくはひとりで、休暇を見つけては島旅をするようになった。
群馬の田舎から島へ出かける旅は、自分の枠を大きく広げた。外へ外へと向かっていき、さまざまな出会いにつながった。
島での出会いから興味を持ったものごと、誰かとの会話から得たヒント、突然のひらめき。
元を辿ればそれは全部、屋久島から始まる。あの時もしもフランスに行けていたなら、まったく違うものが始まっていたのかもしれない。
ともかく、どんどん広がっていった先にオーストラリア旅行があり、そこでの経験から書いた小説をきっかけに文学サークルに所属することになり、文学サークルをきっかけに夫と出会って今がある。

夫と結婚する時、わたしは彼に新婚旅行の行先の希望を尋ねた。
彼は「インドか屋久島に行きたい」と答えた。
検討の末、行先には屋久島が選ばれた。
わたしにとっては二度目の屋久島だった。
戻ってきた、と感じた。ある意味では、屋久島から始まった旅の終わりだったかもしれない。

時々、わたしは想像する。
日常の仕事をこなしたり、日々の家事をしたり、ぼうっとスマホを眺めて過ごすようなこの瞬間にも、屋久島は屋久島として存在しているのだということを。
あの海があり、あの山があり、あの雨も降っているかもしれない。
屋久島のあと、沖縄にも伊豆諸島にも瀬戸内海にも行き、どの場所にも思い入れがあるが、そんなふうに日常の中で思いを馳せるのは、どういうわけかいつも屋久島なのだ。

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