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世界の名匠シリーズ クロード・モネ

こんばんわ。

世界の名匠シリーズ第2回目は クロード・モネ

印象派の生みの親と呼ばれる、誰しもが知っている巨匠です。

前回お伝えしたゴッホに、多大な影響を与えた画家のひとりですね。

ではいきましょーー


オスカル=クロードモネ

1840年にフランスパリで産まれます。生きてたら180歳wwこのくだりは要らないですかww?


5歳からはセーヌ川の河口ル・アーブルで育ちます。商業をしていた両親の店舗の前でカリカチュア(風刺画)を販売し、好評を博していました。ここで得たお金で

19歳の時、アカデミーシュイスという私立の画塾に通い始めます。そこでカミーユ・ピサロに出会います。後にピサロは印象派の長老と呼ばれるようになります。


22歳の時パリに戻り、シャルル・グレールのアトリエに入ります。

そこでルノワール、バジール、シスレーに出会い、後の印象はグループの基礎を作っていきます。


25歳の頃から、モネは国家主催のサロンに絵画を出店していきます。前回のゴッホの時にも記しましたが、当時の画家はサロンでの入選が画家にとって社会的な成功担うものとなっていました。        

そこでの成功が後のパトロン獲得にも大きく影響を受け、日常生活にも画家人生にとっても援助をしてもらえることで、作品に集中できるからです。

1865.66年に2作品ずつ出展し、4作品すべて入選。

1867年に大作『庭の中の女たち』を出展するが、落選・・・

全身全霊をかけた作品が世に認められず失意のどん底・・・

そんな中恋人カミーユとの間に子供が生まれ、それに激怒したモネの父親がそれまでしてくれていた資金援助をなくなり、生活的にも困窮し、追い詰められたモネは


セーヌ川に身投げをし、自殺未遂!!!!!!!!!!


1868年1点入選、翌69年は落選と画家的にも、生活的にも苦しく辛い日々を過ごします。

そしてその翌年1870年恋人カミーユと結婚。しかしその1か月後、普仏戦争戦争勃発!モネは兵役を避けるためロンドンへ・・・

そこで運命の出会い、画商ポール・デュラン・デュエルと出会います。

戦争が終わり、モネはパリの近くのアルジャントゥイユに引っ越します。そこでアトリエを構えることとなります。その頃にはポールが定期的にモネの絵画を購入してくれることで、経済的な余裕も生まれてきました。

そして以前から構想していた、サロンとは独立した展覧会を開こうと仲間のルノワール、シスレー、バジル等と第1回印象画展を1874年に開催。

そこでモネは『印象・日の出』を出展。しかし酷評を得ます。

この印象日の出を閲覧した批評家が

『印象???確かに。しかしこの絵は単なる印象でしかない。私にはまだ描きかけの壁紙のほうがマシだ』と酷評されました。

後にこの酷評で、『印象派』という言葉が定着していったと呼ばれています。

76年に第2回、77年に第3回とやりましたが、評価されず赤字続きだったそうです。やがて印象派グループの中で仲たがいが起き始め、79年第4回の展覧会にはルノワール、シスレー、セザンヌ、モリゾといった印象派の核、基礎となった常連が不参加を発表。同時に前年には妻カミーユが結核で倒れ、パトロン(オシュデ)も失脚、オシュデとその妻、子供6人の同居が始まりました。

一応第4回の印象派展に出展したモネでしたが、嫌々だったそうです。現に第5回には出展せず、後に国家主催のサロンに10年ぶりに出展し入選を果たしていました。


1880年に個展を開き、着実に力を付けてきたモネは画商のポールも事業が回復し、また定期的に絵を購入してくれるようになり経済的に安定も手に入れました。


そんなモネを高く評価していた、ポールは1886年ニューヨークで『パリの印象派による油彩とパステルの作品展』を開催すると大好評!!!

モネもアメリカで高く評価され、逆輸入の形で印象派の地位が確立していきます。

そのころモネは借地だった家を購入し、庭を造ります。


モネは以前パリ万博でみた日本の浮世絵に強く感銘を受け、日本の文化を愛し取り入れていました!!その証拠に1876年に行われた第2回印象派展では、妻カミーユに着物きさせて描いた『ラ・ジャポネース』という作品を出展しています。


なんと!まさかの親日家wwすっごい一気に親しみやすくなりましたねww浮世絵や、着物だけではなく日本でいうところの太鼓橋と呼ばれる、橋を自宅の庭に掲げたり、庭には日本らしくしだれ柳や松なども植えていたそうです。

モネの晩年はその家からの風景を描いていくこととなります。最初に部屋の窓から見えた積みわらの絵の連作に本腰を入れていきます。

連作とは、特定のモチーフを異なる季節、天候、時間、空気、光によってかき分ける作品です。

この連作は、積みわらから始まり、ポプラ並木、ルーアン大聖堂といった作品を残すことになります。

そして皆さんご存じの睡蓮の作成に力を入れていきます。この睡蓮は油絵、パステル画、など200点は制作されたといわれています。

そして最後の大作 壁画絵の制作に入ります。その時の首相と友人関係だったモネは、オランジェリー博物館の二部屋8枚の連作の壁画の睡蓮を描き寄贈しました。


そして1926年 86歳で肺がんにより死去。

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