狂犬病をまた考える⑥農水省を批判した獣医さんたち
前回は、犬以外の動物に対する狂犬病予防の必要性を考えてみました。一方、犬に対しては、今はもっと安全で確実な方法があります。必要ない注射で体調を崩したり命を危険に晒したりするのも、ワクチンが効かない体質で病気に感染するのも、全部避けられるのに…。
さて今回は、狂犬病予防を検疫という観点から考えます。毎年のワクチン接種のみをSNSでことさら強調する獣医師(を名乗るアカウント)が、同じような熱量で農林水産省を批判したことがありました。口々に「エビデンスを示せ!」としていたのが印象的でした。私は農水省の役人ではありませんが、科学的根拠の一部を示したいと思います。
ウクライナの犬たち
去年、ウクライナから日本に避難して来た方々がいましたよね。その中に、愛犬と一緒のご家族が複数いらっしゃいました。戦禍の中でなくても、わんこを残しては来れないですよね。気持ちはよ~く分かります。
で、外国から動物を連れて来るには伝染病防止のための"検疫"が必要です。ウクライナのケースでは通常、動物検疫所で180日過ごすことが求められます。狂犬病などに感染していないことを確認するためです。
事情を考慮した農水省は、この隔離を検疫所でなく飼い主の滞在先で行うことを認めました。「犬等の輸出入検疫規則」という農水省令(≒法律)に基づいた措置でした。わんこに必要な、
マイクロチップを入れる
狂犬病ワクチンを2回接種する
抗体価検査で免疫力を確認する
といったことは、検疫所でキチンと行われました。
さらに滞在先には二重ケージなど逸走防止対策を施し、事前に検疫官が直接確認するのが条件でした。飼い主には定期的な報告や、検疫官の査察受け入れ義務も課せられました。管理が不十分と判断された場合、検疫所へ再収容されることになっていました。
という事で、隔離を行う場所が動物検疫所ではなく自宅というのが通常とは異なる点です。それ以外は基本的に同じです。直接、動物検疫所に確認しました:
これに対し、一部の獣医師(と称する匿名アカウント)がTwitterでとても強く批判を繰り返しました。滞在先での隔離を許可することで、即、日本に狂犬病がまん延するかのような表現もたくさんありました。「"免疫グロブリン"(<= 詳細は改めて)は日本で入手が難しい」と、あたかも、即、命が危険にさらされるかのように不安を煽る書き込みも見られました。
犬の入国:180日の待機
狂犬病が存在しないと農水省が認めた一部の国を除き、外国から犬を持ち込む場合は以下の手続きが必要です:
マイクロチップの装着
狂犬病ワクチンの接種(生後91日以降)
狂犬病ワクチンの再接種(1回目から31日以降)
抗体検査 => 抗体価が0.5IU/mlあることを確認
抗体価が確認できた採血日から180日現地で待機し、狂犬病を発症しない事を確認
その上で、帰国の40日前までに到着予定の空港や港を管轄する動物検疫所に届出書を提出します。さらに帰国便への搭乗前10日以内に現地で獣医師の診察を受け、狂犬病などにかかっていない旨、診断書の発行を受けます。届出書と診断書に不備がなければ、日本到着後の検疫手続きはすぐに終了してお家に帰れます。
ここで、180日というのがポイントです。現地での待機期間が180日未満で日本に来ると、残りの日数が経過するまで動物検疫所に係留されます。これ、国際的な基準からするとかな~り厳しいのですが、「念には念を入れる」ということでしょう。
ウクライナの件に関して農水省は、「この対応によって国内での狂犬病発症のリスクが増すことはありません」と記者会見で説明しました。日本獣医師会も農水省の判断を支持する声明を出しています。
一方、前述のSNSでの発信は、「現行基準をほんのわずかでも緩めると狂犬病発生のリスクが増える」というのが趣旨でした。「リスクが増えないと言うならエビデンスを示せ!」という"専門家"を名乗るアカウントの書き込みもありました。
あるんですけど…
批判のポイント:180日を緩めるな!
狂犬病を発症しないかを観察する隔離期間が180日とされているのは、以下の前提に基づいています:
犬の血液中に狂犬病ウイルスに対する中和抗体が確認できても、ワクチン接種によるものなのか、それとも感染したためにできたのかは区別できない
したがって、抗体検査で抗体価が国際基準(0.5IU/ml以上)を満たす事が確認できても、感染していない事の証明にならない
潜伏期間は最大180日と考えられ、その間は隔離して発症しない事を確認する必要がある
「リスクが増える」と批判した方々の主張も、基本的にこの前提に基づいていました。「180日は検疫所で隔離しなければ、日本で狂犬病発生のリスクが増える!」という意見です。
でもこれ、どれも既にOIE(国際獣疫事務局)が科学的根拠(エビデンス)に基づいて判断を下しているポイントなんです。1つ1つを原文から紹介することもできますが、「第89回OIE総会の報告」(農水省)と題した書類に日本語でまとまっているので、かいつまんでご紹介します。
ワクチン1ヶ月後に抗体があれば安全
犬を輸出する場合、「抗体価を確認して3か月後からOK」というのが現行の国際指針です。この期間を過ぎれば、狂犬病発症のリスクは無いとされています。日本は180日ですが、イギリスが係留期間を90日としているのも、これが根拠でしょう。
これを、30日に短縮する案が5年以上前から検討されています。第1段階として、2017年11月にOIEの「狂犬病アドホックグループ会議」が以下の結論に至っています:
日本のOIE代表も賛同しています:
ワクチン接種前に感染していた場合、30日以内に死亡するエビデンスが十分にあるそうです。
また、予防注射後に存在する抗体はワクチンによるものと判断できるともされています。狂犬病に感染したための抗体ではなく、発症リスクはないとする科学的根拠があるというOIEの判断です。
抗体価が基準を満たせばリスク無し
2019年10月の同会議では、もう少し具体的な事が確認されました:
1)狂犬病に感染した犬は、検査で抗体が確認できるようになる前に死亡する
2)極めて稀なケースとして、感染して抗体価が上がっていても見た目上健康な犬もいる。ただし、そうした症例でも30日以内には「必ず臨床症状を呈し、死亡する」
ワクチンを打って抗体があり、接種後1ヶ月経って元気な犬は安全だ、という結論です。これで、「前提」の「1」から「3」すべてがクリアできます。
狂犬病の専門家による意見書
翌2020年には、OIEの専門家が意見書を提出しています。
という内容でした。以下は、この根拠の要点をまとめたスライドです:
この意見書は、後に査読を受けて論文としても公表されています。エビデンスとしての信頼性に問題はありません。
改正案は科学的に正当
さらに2021年2月には、OIEの「狂犬病レファレンスラボラトリー・ネットワーク」の専門家も意見書を提出しました:
問題はどこに?
発症(感染ではありません)したらほぼ100%死に至るのが狂犬病です。OIEも時間をかけ、慎重に検討した経緯がうかがえます。その結論として、
ワクチン接種を受けて十分な抗体価が確認できた犬が、その後30日元気であれば狂犬病に感染している疑いはない
という事になりました。
ウクライナから来たわんこたちに対する農水省の対応は、狂犬病のリスクを上げることは事実上あり得ない事が科学的に分かっていたからでしょう。あれから約1年が経ちました。現実が全てを語っています。
日本の現行の「犬等の輸出入検疫規則」や狂犬病予防法など、法律や制度はあります。法治国家として法律は遵守すべきですし、無闇に緩和すべきではありません。でも、このケースはエビデンスに基づき事情を考慮の上行われた柔軟で人道的な対応です。
私は問題を感じません。みなさんは、どうですか?
あんなに農水省の対応を批判した方々は、何か別の意図があるのかな?この辺りの情報をご存知ないとか、論文を読んでいないはずはないですし。まぁ、それはどうでも良いのですが、私が言いたいのは、
国内のわんこたちにも
抗体検査を
適用しましょうよ!