みかんの木に雫
実家の庭のみかんの木。
まだ私の腰まで届かない、子どもの木。
その近くにはよくキジバトが巣を作りにくる背の高いもみじが生えている。
木の成長の様子を見た祖父は、
もみじの葉の雫を、みかんの木は嫌がる。
と言い、みかんの木の上まで広がっていたもみじの枝を鋏で切った。
もみじの葉を伝ってぽたんぽたんと垂れる雨粒と、それを受け止めるみかんの木。
葉から葉へ、弾み飛び跳ねる雫。
想像するとなんだか悪くない光景にも思えたので、改めて、
みかんの木が嫌がるの?
と聞いたら、
そうだ、嫌がるんだ。
とだけ返ってきた。
本当にそうなんだ、と思った。
その根拠は祖父の長年の経験に基づいたもので、私はそれを絶対的に信用している。
例えばそれが著名な《みかんの木の育て方マニュアル》に載っていなくても、《私のおじいちゃん》が言うので、私にとっては何よりも真実。
《目の前にいる人の経験に基づいた根拠》
ほど信頼出来るものって、他にあるだろうか?
少し角度が変わるけれど、根拠など存在しなくても《この人が言うのだから》というものはたくさん存在する。
それはおばあちゃんの知恵袋だったり、風邪をひいた時のお母さんの手料理だったり。
何を言われたか、ではなく、誰に言われたか。
言葉も、経験も、根拠も、目に見えないから。
受け取るものは自分で選んで、大切なものを見落とさないようにしたい。
知らない人の耳障りの良い言葉を鵜呑みにしたり、心無い言葉にいちいち傷ついたりしない。
そうして残ったものが、私を創っていく。
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