加害者への怒り・ジェンダーについて

駆り立てられるように、noteを書いている。カウンセリングでもうまく表現できない、吐き出せないこの思いを書いている。

私は、性被害、性虐待、性暴力サバイバーだ。追加すると、過去に、いじめやパワハラも受けてきた。

今日は主に性被害に関してつづる。
私は、幼少期から父と弟から性虐待を受け、小3、小5のときに知らない人からの強姦、中3、大1、大3のときに知人からの性暴力を受けた。回数で言うと、知らない人からの強姦が2回、知人からの性暴力が5回になる。そこに性虐待が重なる感じだ。小さな痴漢などなら数えきれない。

私が、男だったら、そう何度思ったことだろう。しかし、もし男性であったら、私は弟のように性加害者になって自分の加害性に気づかず、人を傷つけて生きる人生を歩むことになっていたのだろうか、と考えたりする。加害者になるか、被害者になるかどちらか選べといわれたら、私はどちらを選ぶだろう。

さて、女の子という自分自身の性は私は好きだ。けれど、女性であることで生まれる様々な不利さがとても嫌いだ。そう、例えば、肉体的な力の差や、様々な女性差別などだ。

こんなことを言うとフェミニストだ、男性には男性の苦しみがあるといわれるかもしれない。そんな言葉を聞く度に、私は苦しくなる。苦しみは互いに比べるものではない。男性には男性の苦しみがある、という事実は理解している。ただ、目的は、どちらの方が苦しみが大きいか、を比べることではなく、お互いの苦しみを共有しあい、それらを解決し、お互いの苦しみを取り除くにはどうしたらよいかを考え、お互いに歩みあおうとすることだ。

エマワトソンの言葉で好きな言葉がある

「If men don't have to control, women won't have to be controlled.」

直訳すると、「男性が支配する必要がなくなれば、女性は支配されずに済む」だ。エマワトソンはそのスピーチの中で、男性も例えば「男性は強くあらねばならない」というステレオタイプを押し付けられ、弱きものとして扱われることに抵抗があり、うつ病の相談ができず自殺してしまうケースなどを例を挙げ、もし、男性がそのステレオタイプから解放されれば、女性も「従順な女性」であることから解放される、と主張している。

私の個人的見解は、フェミニズムは「女性を優先する」のではなく、あくまでも、「女性の解放」であり、男性の自由を同時に実現できるようにあるべきだ。

しかし、現実として、私は、今の社会をひっくりかえすことも、当事者としての声を響かせることもできていない。

永遠に脳内で繰り返される、恐ろしい映像を、止める方法もなく、とにかくこの苦しみが終わってほしいとのたうち回ることしかできてない。何度、私は頭の中で、彼らと闘おうとし、私の頭の中での戦争に終止符を打とうとしたことだろう。しかし、闘うたびに、今は遠くへ行ってしまった加害者を思い、理不尽な現実を突き付けられる。何度闘ったって、負けることが決まっている、そんな悲惨な闘いのシーンを何度も映画のように見させられる。過去はどうやっても変えることはできないのだ。これは本当におこったことなのだろうか?自分でさえ、自分の記憶を信じることができず、疑心暗鬼になる。

友人の近況を聞く度に、劣等感にさいなまれ、友人の幸せを心から祝ってあげられない自分に腹を立てる。

加害者への復讐も考えた。私にはもう失うものは何もないのだから、せめて加害者へ復讐をしておこう。なんて恐ろしい考えが浮かんでは、自分が鬼になってしまうことに怯え、自分の内なる狂気に飲み込まれそうになる。

私はどうしたらいいだろう?

そんな疑問が残る中、今日はここまでにする。

読んでくださった方、ありがとうございます。



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