お母さんが出て行った日

2月26日、両親の離婚が成立し、母親が家を出て行った。

物心ついた時から、両親は家庭内別居のような生活をしていたし、
母は家を出て行く数年前から、私によく離婚の話をしていたため、突然出て行ったというわけではなかった。

両親の仲がいつから悪くなっていたのか、いつの間にもう後戻りできないような状況になっていたのか、よく覚えていない。
ただ、家族で出掛けたり、イベントごとを楽しんだりした記憶はほとんどないため、
私が幼いころから、私の家は「家庭」としての機能は果たしていなかったのだと思う。

母と私はとても仲が良かった。友達親子のようだとよく言われていた。
くだらないことで喧嘩をすることも多くあったけれど、母は私によく話をしてくれた。
話の内容は父の愚痴が多かった気がするけれど、私は女子会をしているようなつもりでよく聞いていた。

「あんたは私が生んだ子じゃないみたいに真面目でしっかりしてるよね。だからお母さんがいなくても大丈夫」とよく言われていた。

真面目でしっかりしている。幼いころから常に言われ続けていたことだった。
2つ年上の兄は私とは正反対で、両親をいつも困らせていた。
そんな兄と比べられれば比べられる程、私は真面目でしっかりとしなければならなかった。


母が家を出て行く時、心の底から嬉しそうに笑って、
「お母さん、やっと自由になれたの」と話していたことを覚えている。

こんなに幸せそうな母を見たのはいつぶりだろうかと思った。
母が幸せなら、私も幸せなのだと思い込むことにした。

母が出て行った後、家の中を見渡すと、母の荷物だけがなくなっていて、
それでも母と私が過ごした時間だけはそこに残っているようで、声が出なくなるくらい泣いた。

私の学資保険にも手を出し、お金のことになると人が変わったように怒り狂う、ギャンブル狂いの父親と
私のお金を勝手に盗み、文句を言うとキレて暴力を振るう兄がいる家に、私は取り残された。

これからどうやって生きていこうか。私は生きる必要があるのかな、と考えていると、
2匹の猫が足にまとわりついて鳴いた。この子達のために生きるしかないと思った。



お母さん。お元気ですか。

「あなたは表現者になれる」と市民劇団のオーディションを受けるように勧めてくれた。
二人でカラオケに行って、常に95点以上を叩きだす母の隣でひたすら歌う練習をした。
オーケストラの演奏会、落語、歌舞伎、能、ミュージカル、様々な舞台に私を連れて行っては「あなたにも何かができるはず」と教えてくれた。
演劇部の公演、ピアノの発表会、市民劇団の公演には、友達を呼んで観に来てくれた。
私の表現力をいつも一番に褒めてくれたし、足りないところも教えてくれた。

お母さんが洗濯物をたたむ横に寝転がって、ハイスクールミュージカルを観る時間が好きだった。
拾ってきた猫に変な名前をつけたお母さんのセンスが好きだった。
二人でデニーズに行って、好きなものを食べて携帯を触る時間が好きだった。
お母さんの買い物について行って「この服は入らないと思うよ」と茶化すのが好きだった。
「あんたは主役はできないけど、主役を食う脇役がうまいよ」と褒めてくれたお母さんが、大好きだった。


それから月日が経って、大人になった時に
「16の娘をそんな家に置いていく親はおかしいんだ」ということに気づいた私は、母を徹底的に遠ざけて、傷つけるような言葉を並べたメールを送り付け、「あなたのことは一生許しません」と吐き捨てた。

母が出て行ってからもう15年以上が経ったけれど、私は彼女を許すつもりはない。
出て行かれてから何があったか、彼女は知らないだろうけれど、
その後に起きた様々な出来事は今でも私の心を蝕み、きつく痛めつけている。

自分自身が親になってからも、その傷のせいで私は悩み続け、
自分の子を可愛いと思えば思うほど、「どうして私は捨てられたのだろう」と考え、泣いてしまう。

彼女のことはこれからも許すつもりはないし、許せないのだと思う。
それは私が彼女のことを本当に大好きだったからであって、
許さないことが私にとっての「愛」なんだと、つい最近気づいた。


今でも、たまに夢に見る。

学校から帰った時、「おかえり」と迎えてくれた母の笑顔と、
母が出て行った後の、がらんとした家。
靴のない玄関。空になった本棚。母の匂い。
声が出なくなるくらい泣いたこと。
今はもう取り戻せないけれど、母との思い出の時間は、確かにそこにあった。

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