もう大丈夫。泣いてもいいよ


辛い時や悲しい時は、そのことに「あえて」気づかないという選択肢があった。
気づかないでいれば、現実を受け入れなくても済むし、悲しい思いをしなくても済むような気がした。
実際はそんなことなかったのだけれど、少なくとも数年前までは、私はそんな生き方しかできなかった。

全てに気づいてしまった時、ひとりで生きていける自信がなかったのだと思う。

昔から、季節が変わる度に訪れる、イベントごとが苦手だった。
それも、世間一般的に、家族で過ごすと言われているものだ。
お盆、お正月、誕生日、母の日、父の日、 家族が関わるイベントが近づくと、それだけで胃が痛くなったものだ。

母が家を出て行ってしまってからは、そのようなイベントごとは大抵一人だった。
母と共に心身ともに病んでいた父は、そんなことを気にする余裕もなく、 ただただギャンブルに打ち込んでいたし、母は母で実家での新生活でいっぱいいっぱいになっていた。

私は物分かりの良い子どもだった。
だから、何の文句も言わなかったし、言おうともしなかった。
気づかないでいた。
辛い状況に置かれている自分に、気づかないようにしていた。

当時の恋人さえも実家に帰ってしまったお盆は、ひとりでただただアルバイトをしていた。
誕生日はアルバイトの後、ひとりで映画を見た。映画の内容はよく覚えていない。
新年はアルバイト先で迎えた。毎年毎年、どの職場にいても差し入れがもらえて、お正月に働くことはそんなに偉いことなのか、といつも思っていた。

こんな時も働くなんて仕事が好きなのね、といつも言われていた。
そうなんだ、と思い込むしかなかった。私は何よりも仕事を選ぶ人なのだと。

気づいてしまったらいけないと思っていた。
大好きな恋人も、親友も、休みを取っている社員さんも、今、どこで、誰と過ごしているのか。

「別に好きでもなんでもない」「毎年集まるからなんとなく」「集まると喧嘩ばかりなのに」と言いながらも
みんなが、誰と、どこで、何をしているのか。

その「なんとなく」の場所は私にはなくて、私がカップ麺をすすろうが、安くなったお惣菜をつつこうが、そんなのどうでも良いことで。
年末、ひとりでテレビを眺めながら何度思っただろうか。
この苦しみをあと何回繰り返せば、楽になれるのだろう。

その時点でもう、私は気づいてしまっていたのだと思う。

どんなに努力をしても、やっぱり気づいてしまうのだ。
私は、何よりも仕事を選ぶ人なのではない。
仕事しか選べなかった。
本当は、みんながうらやましくて仕方なかった。

好きでもなんでもなくても良い。なんとなくでも良い。喧嘩をしても良い。
それでも良いから、なんだって良いから、私にもそんな家族が欲しかった。
帰ったら「おかえり」と迎えてくれる家族と、帰れる家が欲しかった。

「20歳の私へ」 2017.5


ふと思い出し、6年前の春に書いた文章を読み返す。
タイトルは「20歳の私へ」となっていた。
26歳になった自分が、辛かった頃の自分に向けてメッセージを書いていた。
それから6年経って読み返している今も、油断をすると涙がこぼれそうになる。
文字のひとつひとつから「助けて」という声が聞こえてきそうだからだ。

私が自分自身の本音をきちんと受け止められるようになったのは、30代になり、結婚をして、妊娠や出産を経てからだと思っている。
それまでは、始めにある文章のように、必死に気が付かないように取り繕っていた。
文字通り、そのことに気が付いてしまった瞬間、生きていけない気がしたからだ。

今だからこそ、嬉しい時は笑うし、悲しい時は泣いて、感情をこれでもかと言うほど出し尽くす私になっているが、必死に取り繕っていた頃は、どんな時でも笑顔の仮面を顔に貼り付けて生活をしていた。
悲しくても、悔しくても、人前で泣くことなど滅多になかった。

今でも、季節ごとのイベントや年末年始、大型連休、「家族」が関わるようなイベントごとは苦手だ。
自分にはもう家族がいるのに、身体が勝手に反応して、ソワソワしてしまう。
それほど、10代、20代の私へのダメージは大きかったのだと思う。
当時は、たまに文章として吐き出し、自分の気持ちをどうにか抑えようとしていたのだと思うが、それでも常に「もう楽になりたい」と心の奥底では願っていた。

当時の私にとって、「ひとりで過ごすこと」は「私には家族がいません」と答えを出してしまっている気がして、
きっと本当は「そんなことないって信じたい」と願っていたのだと思う。


お母さんが出て行った。お兄ちゃんやお父さんから暴力を受けた。
家族にお金を貸してと言われ、断ると盗まれた。実家が売られた。荷物はすべて廃棄処分されていた。
「学費を払ってください」と頭を下げ、床にお金を投げられたこと。
逃げるように立ち去る私の背中に「もうしねよ」と言われたこと。
出て行った母親に「あんたが羨ましい」と言われ、グチをこぼされる日々や、
賃貸契約の保証人、就職先の緊急連絡先に誰の名前も書けなかったこと。
どうして一人で生きていくことはこんなにも難しいのだろうと、生きるのをやめたくなった日々。


ここまで事実を並べても、「そんなことないって信じたい」と思っていた当時の自分も、
もうすべてを受け入れて、たまに思い出して夜通し泣いたりしながらも「まぁ生きていくしかないよね」と立ち直る今の自分も、全部、私だ。
どの自分も否定しようとは思わない。今の自分が立派だとも思わない。
ただ、今だからこそ、信じたくて必死にもがいていた当時の自分に言ってあげたいとは思う。

「信じたかったよね。
お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、大好きだったよね。
いつか自分の過ちに気が付いて『辛い思いさせてごめんね。悪かったね。ほらおいで』と抱きしめて欲しかったよね。
いつだってそう願ってたよね。だから誰に対しても怒れなかったんだよね」


こんな風になれたのも、今まさに私が親となり、息子に同じような声かけをしているからで。
まだ言葉も話せない息子が大きな声で泣くたびに
「どうしたの?痛かった?寂しかった?ぎゅってして欲しかったのかな。寂しかったよね」
と声をかけ、抱きしめる。
そうやって息子を抱きしめる度、ふと振り返ると、辛くても泣けないでいた昔の自分が、頭の片隅で、何となくこちらを見ていて。

どんなに裏切られても、ひどいことをされても、傷跡が残っても、それでも、「もしかしたら愛してくれるかも」と希望を持っていた自分が、
「もう楽になりたい」と死ぬことを何度も迷いながらも、それでも何かにしがみついて生きていた自分が、「もう泣いてもいいんだ」とやっと泣くことができている気がしている。
私がたまに意味もなく泣いてしまうのは、当時の自分の分まで泣いているからなのかもしれない。

傷跡は消えない。消えないけどね。生きることはできるから。
そして生きていたらね、家族に出会えるよ。帰れる家もあるよ。


26歳の自分が残したメッセージの最後は、こう締めくくられている。
こうして私は、何度も未来の自分自身に励まされながら、今も生きている。


死にたかったあの頃、たくさんの人にとめられたけれど、 いつも頭のどこかで「お願い死なないで」と誰かが訴えていた。
もしかしたらその声は、今の私の声なのかもしれない。
結局、生きたかったのは自分自身なのだ。
死にたくなかったのは、自分自身なのだ。
ねぇ、よく生きたね。よく頑張ったね。辛かったね。悲しかったね。 もう大丈夫だよ。
気づいても良いよ。絶対に楽になれるから。 頑張ったね。お疲れさま。あと少しだよ。
お願いだから、死なないで。

「20歳の私へ」 2017.5


生きててよかったね。よくがんばったね。
もう大丈夫。泣いてもいいよ。
32歳の私より。

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