議論していてちゃんと謝れる人って、その都度責任を取っている人だと思う。
先日ある人と話していて、思った。
なぜ問題解決しなければならない状況から逃げて、話し合うことを避けているのだろうか?と。
以前、ドラマ『きのう何食べた?』の中で、ケンジが自身の父についてシロさんに語ったときに、
はっきりさせない夫婦の形もあるんだよ・・・。
というようなことを言っていた。
そのときに、ああ、そういう生き方もあるんだなあと、なんだか感心してしまった。
とうに心が離れている夫婦。もちろん子どもたちのことを思ってそのままのほうがいいと判断するというのならわかる。しかしケンジの両親の場合、別居して長い。どういうことだろう?
何かにはっきりさせなければ前に進めないタイプの私は、謝るときには、徹底的に謝ることにしている。
母に言わせれば、なんでも謝っているらしい。
しかし、先日のその人は、相手が十悪くて自分が0でも謝るらしい。
いやいやいやいや、それは責任放棄というものだ。
だって、それは楽だから・・・。
そういう生き方はそうだと決めているという点で楽だけれど、何も起こしていない。逃げである。
そういえば、こちらの地方で一番優秀と思われている大学に進学し、家でバイトしていた大学生に、注意するための話し合いをした時に、その態度を気にしたのに、全然わかっていなくて、
高圧的な櫻井先生に、ぺこぺこしている自分の絵柄を思い描いてました。
と言った時に、
ここの生徒、誰もそんなこと思ってないよ・・・。
と、呆れて言ったのを思い出す。
彼は、自分のほうがあれこれ嫌なことを飲んでいると思っていたのだった。
まあ、バイトだから、少々しんどいことも持ちながら成長していく方がよいのだけれど。
試験期間に休むと言ってはちゃんと休ませたし、時給だって、かなりの額だった。相場よりはかなり良いと聞いた。それも本人から。
ただ、うちの教室は、やっていることのレベルが高いと言って、これは無理と思った大学生もいたから、当然に求めることも、内容があって、当然負担も大きいのかもしれない。
とはいえ、呆れた。
彼は責任を果たさずに、ただ、自分の気分だけで、言いたいことを言っていたに過ぎない。
私の場合は、責任論に行きつく。
七対三で相手のほうが悪い場合、私は三の分は先に謝っておきたいのである。議論を有利にするためではなくて、責任論の立場からである。
先日、NHKの朝ドラ「虎に翼」の中で、主人公寅子の部下である裁判所の書記官が、挑発に乗った形で暴力をふるってしまったという場面があった。田舎の慣習で、そういうことは波風立てず、「穏便に」済ませるように周りが、それも法曹が動く。それをその支部でトップの判事である寅子はなあなあにはしない。
気持ちも状況もわかったうえで、処分するという。
同じく法曹として法を遵守するべき立場の弁護士は、
めんどくせえ裁判官に当たったのう。お前も災難なこっちゃ。
という風に解釈し、それを表現もする。
法。
法面、法線ベクトル。
ちゃんとパンッとしっかり事分けるのが法ではないか?
でも、支部長の考えを聞きたいと言った書記官に説明する寅子の言葉は、
ああいう人たちに借りを作ってほしくないの。私がいなくなっても、あなたが言いたいことを言い、したいと思うことができるようにと思って処分することにしました。
そう、責任を果たすということは自分の自由を守るということである。
その時の寅子の発言に、私は法曹ではないが、ものすごく納得したし、その考え方が自分の中のどこかにあるということに気付いた。
責任を果たしていないと何も言えなくなるのである。
そういえば、若い頃から、何かの会議に出席したら、幾分男尊女卑的傾向のある所にいても、なぜか意見が通ってきた。それも、別に何かの軋轢もなく、すんなり。
私は、まず働く。
求められていることをとりあえずやってしまう。むしろやりすぎて迷惑がられたりするくらい。
その証拠に、あちこちで働いてきた私がたった一度クビになったところのその理由は、端的に言えば、実績を出し過ぎて、専任が困るから、というのをうまい具合に違う言葉で言い換えられたものだった。(笑)
確かにそれは迷惑だったことだろう。
それから、その仕事の矛盾に気付けば、それを表現する。
かつて娘が、担任の先生が、周りの女子たちに批判されているのを見て、同級生たちの言動について、
義務も果たさずに権利ばかり主張してどうすんの?
と冷徹に批評していた。
どうも私の子どもたちには、おかしな法律的ものの考え方があると思う。
法曹になるとかならいいけど、一般的に言って、世間を渡っていくときにはどうなのだろうか?
と思っていたが、どうも私の中には、とうにそういうものの考え方が出来上がっていたようだ。
感情論で、嫌だではなくて、この責任を果たしているから、ちゃんと発言しようというような。
刑法で言うと、情状酌量の余地があっても、ちゃんと刑罰は科される。
ドラマの中の書記官で言うと、挑発した側が悪いけれど、ちゃんと責任を取りなさいということであろう。
それならば、一つの家庭の中で、自分が咎められても仕方がないときに、さっさと頭を下げて、ちゃんと責任を果たすというのはどうだろうか?
頭を下げるというのは勇気もエネルギーもいることである。
それに変わろうとすることはもっと大変である。
変わり続けることのできる人は、当然に成長するし、目の前のことについてもちゃんと対処できるものである。
かつて勉強して、学歴をつけ、それなりに素晴らしいとされる職業に就いたとしても、人生は長いのだから、それだけで語られたり、あるいはそれだけで立てられたり、それだけでそのまま何もせずにいていいというわけではない。
たった一つの財産を大事に持って、だから自分は偉いんです、で通るほど世の中は甘くない。
私たちの時代にはまだ通用した概念ー男は外で働いて金を稼いでくればいい、はもう通用しなくなっている。こういう表現はいただけないかもしれないが、女も強くなり、いろんなことに気付いて、そのことに行動し始めている。いろいろな法改正、年金制度においても、世の中がものすごい勢いで動いていることを感じる。
そろそろ考え方を改めなければならないときが来ているのでは?
自分は金を稼いでいるから、なんでも言うとおりにしてもらえる。社会的地位もある。だから、というのはもう古い。
あるご夫婦で、奥様があれこれ困っていらした。
人間関係的に客観的に聞いていると、どうしたって分が悪いお立場であった。旦那様は、どう見ても有能な奥様を何とか押さえつけて、自分の言うことを聞かせようとされていた。社会的地位があるから。
あるとき、気付いた時には、知らないところで奥様はさっさと人間関係を作っておられ、そこから学びがあり、ご自分の生活をあちこちに伸ばしておられた。退職してからは、旦那様は一人寂しく、それ以前のように立てられる立場ではなくなって、大変な思いをしている。それからどうなったのかは知らないが、まあ、その夫婦関係を解消されるのは時間の問題か、あるいは奥様の気持ち次第だろうと思っていた。どちらにせよ、我慢した年月の分、ご自分に有利に持っていかれるだろう。もし旦那様側が、いっとき自分に有利に持って行ったとすれば、その後、いつかはその旦那様は世の中でとんでもなく生きていきにくくなるだろう。介護の問題だってある。
ここはちょっと改心して奥様のお力を借りて生活していく方が得策かと思うがどうであろうか?
こういうの、ツケが回ってきたというのであろう。
かつて、専業主婦の立場に胡坐をかいて、という表現をよく聞いたが、その逆で、エリートサラリーマンであることに胡坐をかいて、妻の気持ちを聞かなかった夫の悲哀というのはどれほどのものであろうか?
かつて私は学問というものは、人間的に賢くなるためのものだと思っていた。でも、これは概ねの感覚的なものであるが、仕事はどうかは知らない。でも、一般的な人間社会で、幼くなっていく人もたくさん見てきた。
勉強もしてきた。でも、人間的にも大人で、ちゃんと自分の機嫌を自分で取ることができ、周りの人とも強調できる人と出会いたい。
そもそも自分がそうできているかは棚に上げておいて、そんな憧れられる人に、一人でいいから出会ってみたいな。
誰か心底、私に羨ましいなと思わせたり、ああいう人だったらいいなと思わせてくれるような人に出会いたい。
こういうの、人の欠点ばかり目に着くタイプということになるのだろうか?
こういうことを考える度に、
ああ、私って幼いなあ、怠け者だなあ、と思う。
自分は自分を向上させるしかないのである。
自分のことを棚に上げて、人のことを言って落ち込むだなんて、時間の無駄遣い。
自分を向上させるように努力しろよ!
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