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「嫌われる勇気」ならぬ「嫌う勇気」

 私は、今まで、人を嫌うことを極度に恐れてきたような気がする。

 小さいころは、もっと、嫌うことを自分に許していたと思う。

 いつから、嫌い、ということが言えなくなったのだろうか?

 その人にも事情があるだろう、とか、理解しなければならない、とか、お世話になっている身で、嫌ってはいけないとか・・・?まあ、仕事柄、どの子も愛せなければ、とか考えてきたのかもしれない。

 昨日、私は、嫌いなものを嫌い、ということに決めた。

 むしろ好戦的なおばさまの、「私なら言ってやる!」という言葉に、私なりのバランスで、対処していたことがたくさんあったのだけれど、それもどうでもよくなってきた。

 先日、私が、ある人にだけ、非常に感情的な面を出してしまうことについて、「いつも教師という立場で、感情を抑えているから、そういうときに出てしまうのかな?と思って。あるいは、気を許しているとか?」と言われて、なるほどなー、と思ったのである。

 私は、断定的にものをいう人や、個別具体でなしに、抽象的一般論で語ったり、あるいは、類型論で語る人が苦手である。話を聴いているだけで、それじゃあ、新しい視野を入れる気ないじゃない?この話は何のため?と思ってしまうときがある。教える気マンマン。自分だけが正しいのかしらん?と思わされる発言である。私は、価値観が違うときに、どうしてそれを受け入れられないのか、考えてしまうのである。

 人と人が話すとき、それは単なるコミュニケーションである場合と、どこか解決まで行かなくても、どう考えたら、楽に?あるいは楽しくなるか?ということを話したりすることがあるような気がする。

 私は、教科については教えるけど、それに、こうされたら、気が楽で、ほかのことが楽しくなるのではないですか?的な話はするけれど、できるだけ断定的に話さないように努めている。別にそれが正しいとも思ってないけど・・・。ときに、相手がそうした方が安心する、と思ったときには、私も断定的に話す。よくわかりもしない話に、自分で判断するほど、私は経験が多くない。

 今日、私は、今、お付き合いしたくない人と、少し距離を置いた。

 絶対的に離れよう、と思ったわけではなくて、今、お付き合いできないから。今は距離を置きたいから。

 そんなことなら、今までもやっていたじゃない?とも思える。

 でも、今日は、自分なりに、ちょっと勇気が必要だった。

 嫌いな話題がある。それを近くでされるのは、明らかにマナー違反だと思う話題もある。それを嫌う自分を、長らく、経営者失格、などと思ってきた。お金を扱うのだから、清濁併せのまなければいけないことなど、とうに知っている。でも、それとこれとは別だ、と考えてもいい、と思えるようになってきた。

 まずは、何かあったら、「私は○○は嫌い。」と言ってみよう。それから理解してみよう。拒絶する自分を否定してしまうのではなくて、まずは認めてあげよう。○○ができていない、ではなく。それから、いったん認めてから、私は、理解しようとすればいい。それも、自分に関わる部分だけ。そう、自分に関わらない部分まで、理解しなくちゃ、と頑張るのをもう、やめたいと思うのである。

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