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つくづく感じるのが苦手な私

数年前、何を考えたか、嫌われるのがデフォルトになっていた私。
それは後年、ある人たちの都合の良い思い込ませる作戦のためだと気付くのであるが、ある時、自分のことを嫌っていなさそうな人が現れて、つくづく困った。
頭で考えていることと感性が一致せず、正直、その相手に、違う人のこととして相談したこともあるというおかしさだった。

どう考えても私とは全然違う育ち方をしてきているし、仮に若いころに出会っても、私がときめいたり憧れたはずのない人である。
ハッキリ言えば、もう少し教養がほしい。教養が足りない。(笑)
それに私が横目で見て、

何よ!

というようなものばかり好きな人なのである。
正直好かれても私のプライドが(どんなプライドやねん!?)傷つくくらい、真逆の世界にいる人だった。

いやあさ、偏差値とか言い出したら、どうなるのかわからないけどさ。
そういう問題ではない。

でも、職業的にならまあ、かけ離れているわけでもないけど、とりあえずその世界にいるにしても、今まで会ってきた人とは違う。
要するに単純にお金持ちだというだけかもしれないけど。
自分を盛るためにあれこれしている感じ。実質主義の私とは人生観が違う。
正直、もう少し思考が深い人がいい。
要するに思慮深くなく、私に対して、浅薄な話をするので私はある意味辟易していた。

その人が私を嫌いではなさそうなので、私は本当に困った。

頭ではデフォルトで、

ここにいる人は自分のことを嫌い。

と刷り込まれていた。
ここの人は閉鎖的で、他県の人を受け入れないから、あなたは入れてくれない。

ということらしかった。当然苦労して当たり前。だからあんたは嫌われる・・・。

と言ったその人よりも、私の方がいつの間にか人間関係を作っていて、

あなたと一緒に○○がしたい・・・。

と言っていただくことが多かった。
酷いときには、

家の息子にも、あなたみたいな人が来てほしいわ。

とおっしゃる憧れの女性もいらした。

今思えばおかしい思い出である。
いや、価値観が違うのはおそらく当時も今も同じだけれど。

今書いていてわかった。
好かれているものまで嫌われていると思わせる人がいたのである。
それを刷り込まれていたので、一度はその相手に相当怒られた。
そりゃあそうである。
嫌ってもいない人に対して、嫌ってますよね!?と聞いたのと同じである。

さっき、大学受験来年組の生徒の漢文を指導していた。

孟浩然と王維、玄宗皇帝などが登場する。
王維の機転で、閉じこもってばかりで出仕しようとしないが素晴らしい人格を備えた才能ある詩人、孟浩然を玄宗皇帝と引き合わせる場面である。

こともあろうに、孟浩然は、玄宗皇帝に詩を作ることを求められ、

不才にして明主棄つ

という表現をし、玄宗皇帝から、

あなたは出仕することを望まず、朕ははこれまであなたを見捨てたことなどないのに、どうして朕を悪く言うのか?

と言われて、孟浩然は都を追われて故郷に帰るのである。

これではまるで私が、勝手に

ここの人は私のことが好きではないんだわ・・・。

とふるさと大阪へ逃げ帰るようなものである。(笑)
いやいや偉大な詩人ではないって!

孟浩然と私は違って、一生懸命に、

お前はここでは嫌われる。
お前はここでは嫌われる。

と呪文を唱えていた人は確かに存在するだけである。

今日、ああ、またやってる・・・、と思うことがあった。
目の前の人は明らかに喜んでいる。
すごくすごく喜んでいる。

そのことを私は何とか思考で、そうではない方に解釈しようとして頑張っている。
喜んでもらいたくてしたことだというのに。

思えば新婚の時から、実家の母より姑には、仮に数百円でも良いものを贈ってきた。実家の母の方が好きに決まっているからこそ、姑にの方を少しでも良いものにして、自分の気持ちをそちらに向けようとした。

自分で習って、自分で作るクリスマスの飾りの教室にも自分の物だけでなく、お姑さんにあげるためにも作ってもらった。

それでも相手を好きだとか嫌いだとかいう感情をできれば隠しもするけれど、隠されたこともなかった。曲解のオンパレードだった。
だから自分が至らないと思い詰めてきた。
でも、外の世界とやり取りしていると、そうでもないと思われることばかりが起こった。
いつからか私はそうそう嫌われるばかりではないということに気付き始めた。

その癖を今日思い出してしまった。
目の前で相手が喜んでいる。
自分がしたことをとんでもなく喜んでいる。
それなのに、違う認定をしようとしている。
その場合は、後でそうではないとわかったときのみ落ち込むか、あるいは、ああ、そうだったんだ・・・、と思えばいいと思う。
それなのに、なんとか頭で違う認定をすると落ち着くのである。

これって、意外と病巣深いなと思った。
相手の素直な、本当に単純な喜び方に反して、私のあれこれ思っている複雑さ。

いや、先生は単純でしょ?もちろん褒めているんですがね・・・。

と言われた私の中のとんでもない複雑さ。
これでは私が喜んでいても、喜んでくれなかったと主張されているのも同然である。
これは良くない。
どこかに複雑な話があって、本当に複雑な結果を目にしてからそうする方がよい。

ということで、これからはもう少し感覚を大事にしようと思う。
別にそうそうわざわざ複雑にすることもないのだし。

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