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何かを成し遂げるために。

私はあまり人と対立することは好きではないし、はっきりものを言う方ではないか?と訊かれたら、それは時と場合による、としか言えないし、でも、どうでもいいことには意見を言う気はさらさらないし、譲るところは徹底的に譲りたい面もあります。

けれど、ひとたび、この件については、誰かの顔も立てたいけれど、そうしていたら、絶対に進まないな、と思うときには、仕方がないから、そこは許してもらうことにしてます。

誰だって、誰でもを大事にしたい。
けれど、物事を進めるときには、あれこれ話し合っている暇もなくて、もう、そんなことしていたら、たぶん、進むものも進まない、ということもあります。責任者になれば、特にそうなると思います。

かつて、そのことが自分に課された使命であると思わされていて、そのためにこそ、その場にいるのだ、という立場であったとき、自分がその使命や頼まれたことを実行しようとすれば、誰かの立場をなくすことになるかもしれない。けれど、そのことを成し遂げなかったら、もっと困る、という立ち位置に立たされたことがありました。

誰も、誰かの立場をなくすようなことをしたり、誰かの顔が立たなくなるようなことをしたりしたくはありません。
誰かを傷つけたくもありません。
でも、立場的に仕方がないこともあります。

そういうとき、自分が憎まれても、痛くても、やるべきことを優先します。だって、立場というものがあります。託された、やらなければならないことがあります。

昔、大学の先輩が、卒業されるとき、怒るほうも、注意する方も辛いんです、とおっしゃったことがありましたが、それは教員時代を経て、本当に嫌なことを言わなければならない、ということの辛さはもう、腹を括るレベルに何度も経験してきました。

ときに、じゃあ、それを私がしなかったら、どうなったんですか・・・?という問いかけを投げかけたくもなるのですが、その答えはどういうものなのでしょうか?
みんなでできないことを選択すればよかったのでしょうか?

それから、一つの文章の中に、書いていないことを解釈されることがあります。どう読んでも書いていない。書いたことにされていることもあります。それも、どうでもいいな、と思います。その人の心が読むのだから。

どんなに一生懸命にやっても、伝わらないこともあります。決して悪意でなくても、伝わると思う方がおかしい。

だから、私は、自分のするべきことを自分の立ち位置で、一生懸命にすることにします。もちろん、できるだけ周りとのバランスを考えながら。

自分がいることで助かっている人がいてくれると嬉しくなります。自分がいることが誰かにとってあまりうれしくない時には悲しくなります。
以前そんな話をしたときには、ある人は、それはお互いさまで、あなたが一方的に迷惑かけてるなんてことあるわけないよ、と言われましたが、私は、そういうことに結構敏感な質だと思います。

人間の関係性というものは、非常に相対的なものです。
その相対性の中で、自分の立ち位置は変わるので、仕方がないことはどうしても出てきます。
そもそも自分の立ち位置が良いものであるようにと考える方が無理で、一生、自分の立ち位置から、懸命に努力するしかないと思います。そして、その努力が、楽しいものになったときに、全く違う風景が見えてくる・・・、そんな人生を歩いてきたように思うのです。

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。