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日記11-進撃の巨人を見るたびにモヤモヤする話。

どうも、就活中で忙しいけどなぜか進撃の巨人を見始めた陽毬(ひまり)です。

少し昔の話をしよう。
私が中学生だった頃に、ちょうどアニメ黄金時代(私の個人的な感想)の最中で、有名な作品がたくさん出ていた。
私がその時一番好きだったアニメはPSYCHO-PASSだった。その時は狡噛慎也と槙島聖護どっちがかっこいいか友達とよく言い争ってたなぁ……懐かしい(ちなみに私は狡噛派)。

少し脱線したが、とりあえずその時期に質の高いアニメがたくさん出ていて、大人になった今、相変わらず面白さを感じさせるものが多かった。
その中で神作だと称えられ、みんなに最も愛されていたのは進撃の巨人だった。



今振り返ると、進撃の巨人がクラス間でそれほど大人気になった理由はもう覚えていない。
多分ネット上に漫画派のエールが凄かったのと、スリルを求めたがる(?)繊細で敏感な中学生にとって第1話から刺激が強かったからだと思う。
私はPSYCHO-PASSの第1話とその後のストーリーを見たから、血が出る系に少しだけなら耐性があると自負していたが、巨人が人を食べるシーンに大きな衝撃を受けてしまい、夜怖くて眠れなかった…
命が紙切れのように薄くて軽い世界で一生懸命に生きようとする人々を見て、苦しくて怖かったけど、やはりストーリーの面白さに惹かれて、第1期が終わるまで毎週視聴していた。

第1期が終わったあと、なかなか第2期が出なかった。
やっと第2期が出た頃に見たい気持ちもあったが、ちょうど忙しい時期と被ってしまい、結局私の進撃の巨人への知識は第1期の最後に止まったまま。
そして、時は流れた。

大学生だった頃に、ファイナルシーズンが出ると聞いて、いい機会だしもう最新話まで一気見しようと思ったわけだ。
まず第1期を見返した。相変わらず面白い。
そして、何の予備知識もなくいざ第2期の第1話を見てみたら、昔進撃の巨人への苦手意識が蘇ってきた。
百戦錬磨の兵士だって、目の前にある未知のものに対して震えが止まらなかった。
戦う気持ちを持っていながら、結局恐怖に勝つことができなかった。
兵士としての尊厳が崩壊した瞬間。
見ていてとても苦しかった。ただやはり続きを見たい気持ちが強かった。
それから、また似たようなものを見せられるのではないかとビクビクしながら見続けていた。(そしてやはりその後も何度か見せられた)そして、第3期とファイナルシーズン。
何を見ているかすら分からなくなってきた。
ショックが大きすぎたせいで、気持ち的な余裕がなく、ストーリーを追うだけでも精一杯だった。
ちょうどファイナルシーズンのパート1最終話に追いついた頃に、続きを見ていられない私は進撃の巨人というコンテンツから少し距離をとることにした。



全体的に、私は進撃の巨人という作品に対して常にモヤモヤした気持ちを抱えていた。
主人公たちは一見単純明瞭な目的を持っている。
それは、巨人を駆除し、巨人がいない世界で自由に生きること。
だったはずだが、真相が誰にも予想できないほど規模が大きく、さらに人々の思惑が複雑に絡み合っている。
一体何をしたいのか、これからどうすればいいのか。ある意味、巨人に囲まれた頃の方が「幸せ」だったかもしれない。

作中には、とても考えさせられた言葉がある。
「後からどうこう言うのは誰でもできる。選んだ選択は果たして正しいかどうか誰にも分からない。それでも選択をしなければいけない時が来る。」(大体こういう意味の話)
全ての人物がそれぞれ正解がわからない選択を迫られ、選んだ結果が今に繋がった。それだけのことだ。
しかし、部外者の私から見ると、どうしてこんなにも苦しくならなければいけないのか。
ただ生きたいだけなのに、こんなにも辛い経験をしないといけないのか。
話の展開によって絶望の解釈が異なってくる、こんな残酷な世界に生きる人々に対して、私はどうしても憐れみに似たような感情を抱えてしまう。

進撃の巨人を思い出すたびに、私は毎回やるせなさと絶望感に直面する。
だからこそ、ファイナルシーズンを見る勇気はまだ絞り出せずにいる。
それでも一体どんな結末が待っているのか、進撃の巨人に長年悩まされてきた私にはそれを知る義務があるように感じる。



最近、私はまた進撃の巨人を見始めた。
多分、今の私は結末を見届ける心の準備ができたからだと思う。
ただ心配なのは、すごく賛否両論な結末だった気がするので、最終回を見たら果たしてこのモヤモヤが解消されるのか…
気になるところだが、とりあえず、みんなそれぞれの生き様をしっかりと見届けたいと思う。


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