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インプット過多と自分の中の萌芽について

新年があけまして2022年になりました。今年もきっと色々とあるだろうけれど良い年になるだろうなあという感触を得てのスタートです。とっても良い感じ。


そこまでは良かったのですが、2日目からですかね。早速お正月疲れをしておりまして、メッセージのやり取りやら動画をみたりやらいつもより多めな気がしたのでちょっと疲れてしまったのです(楽しいのですけれども)

特に動画やSNSは受け身で見ている事の方が多かったので、それも原因かな?とも思っていました。


そこで改めて作る(発信)ってなんだろうという問いに立ったわけですが


受信する=消費する、だとしたら送信する=生産する、ということだと思うのです。


受信をするのは楽しいしある意味楽です。でもこれは私の場合なのですが大体の受信したものはあっという間に忘れています。だって受け身だから、そこに自分の人生を投入しようとしていないから。

その点、発信は自らが何かを作り出そうと一からもがきます。それは絵であったり言葉を紡ぐことであったり形は様々です。そしてその困難なプロセスをくぐり抜けてくるので描いたor書いたことは覚えてる期間が長いような気がする(忘れることもあるけれど😂)


この受信と発信が交わされる会話がバランス良くなされるとある種の平穏が訪れる様な気もしています。どちらかに偏りすぎるとやはりバランスは崩れるものです。そういう会話ができると物凄く嬉しい。


ちなみにこれも私の場合ですが、受信過多になりすぎると虚しさの風がヒュルリと吹き抜けていきます。しかもその虚しさを感じる時は何に虚しさを感じているのかわからないのです。

少ししてから、ああ!インプットデブになってたわ!と気づく。

自分の中にある気持ちだったり、抽出してあげないといけない部分をそのままにしてると自分の中で鈍化してしまってその鉱物のきらめきが失われてしまうのです。

だから出してあげる、そしてそれは容易な仕事ではない。でもやらないとどんどん何かがよどんでいく。


たまにスーパーとかで死んだように買い物かごに食べ物を放り込んでいる人がいますが(me too sometimes😂)、消費の方が断然多い生活なのかなと勝手な事を思ってしまうことがある(すみません)。別にそれが悪いわけではない、本人が選んでいる事だと思う。けど何か外側に出したくても出せない、そんなものを感じるような気もする。これ、自戒を込めて書いています。


だって自分の欲しい物は目の前に陳列されていてそれをピックアップするだけ。でも本当に欲しい物はまだ見えないけれど自分の手で創造できる可能性を持っている。後者の方がワクワクしません?


いやだって私なんかにはあの人たちみたいにはできないよ。。!と思ってしまうことがあるのですが。そうそう、この前友人と話していて彼女は私がいつも不安に思っている事に対してそういう事に不安を感じたことがないとサラッと言い切ったのです。

すごいなあ、さすがだなあ、うらやましいなあという気持ちがムクムクと私の中に込み上げてきました。いつもだったらそこで自分と相手を比較してしまうところなのですが、今回は不思議な事が起こりました。というか、すごい事に気づいてしまったのです。


あ、そうか、自分もその萌芽を持っているからうらやましいと思うんだ!


ということに。


もし目の前にいる相手が自分の写し鏡だったら相手の嫌な面を見た時にこれも自分なんだ、気をつけようと思えます。でももしそれが良い面だったら。。?

あ、これも自分なんだ。何だ、じゃあ自分にもこんな素敵な事ができる可能性があるんだ!という事になります。


もうとっくに気づいている人はいっぱいいらっしゃるんだろうなあ。でも私は気づくのが今だった。気づけて命拾いしましたよ。

うらやましいと思う=反応する、という事は何かしら自分もその事柄について持っているから感じるのですよね。もし何も持ち合わせていなかったら興味のない対象として何も印象に残らないし反応はしないと思います。


だからインプットデブになりそうになったら憧れの誰かの真似でも良いからアウトプットをしようと思います。そこから、あ、こういうこともできるんだ、という自分の新しい方法も見つかると思うし、うまくできなかったらそれは闇に葬って仕舞えば良いのです(笑)


というわけで先人の知恵中の知恵、切り干し大根をせっせと作っております。。2022にやってみたいこと。切り干し大根を作る。

ありがとうございます!サポート頂いた分は今後の活動費に投資させて頂きたいと考えています。